都筑道夫の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』という本を久しぶりに読んだ。前に読んだのはたぶん15年以上昔のことだ。晶文社の本で、新装版が1998年に刊行されたらしいが、もちろんそちらではなく、1975年の初版本だ。カバーにはハトロン紙がかかっている。学生時代に古本屋で買ったものに違いないが、ハトロン紙から値札がはがされた痕があって、いくらで買ったのかは定かではない。
僕は普通、読書をするときには4色ボールペンを傍らに置いている。気になるところや重要だと思えるところには、どんどん線を引いたり、感想や思いついたことを書き込んだりする。人生のある時期には読み終えた本を引越しの際にまとめて古本屋に売るなどしていたこともあり、その頃は少しでもいい値で売れるようなるべく「きれいに」読むのを心がけていたものだが、今はもう、自分が一度読んだ本をふたたび世の中に流通させようという考えはなくなってしまった。
だから、乏しい記憶力を補うために、読んだ本の内容を少しでも頭に刻み込もうとがんがん書き込みをする。基本的に、絶版になって手に入らない本の他はAmazonのマーケットプレイスなども利用せず新刊で購入しているから、新しい本に書き込むことになる。書き込まないと読んだ気がしないようにさえなった。高価な本とて例外ではない。赤青緑黒。自分なりの基準にしたがって書き込み、さらにページの隅を目印としてドッグイヤーにぐいぐい折り返す。遠慮はしないのだ。
ところが、この本には書き込みができなかった。
書き込むことがないというわけではない。『黄色い部屋はいかに改装されたか?』には、都筑道夫の「本格推理小説」に対する考えが実作面からも書いてあり、今読んでもためになる部分が多い。読みながら何度もボールペンに手が伸びそうになった。頭のなかでは自分ルールで線を引いている。でも実際には、その箇所のあるページに付箋をつけただけで、最後までボールペンで書き込むことはなかった。
書けなかったのだ。
いや、この本が、どうやら新装版のほうも絶版になっているようだし、ましてそれ以前の初版本だから、書き込まなければいつかプレミアムがついて高く売れるのではないか、とか、そういうことを考えて書かなかったわけではない。本を書いて報酬を得たいとは思うが、人の本を売買することで利益を得ようという考えはとりあえず今現在はない。
経年なりに黄ばんでいるけれど紙には虫食いも破れもなく、なかには刊行当時のものとおぼしき晶文社の書籍案内が挟まれていて、そして誰かの手――古本屋さんだと思うが――によって丁寧にハトロン紙がかけられている。幾度もの引越しや有為転変を経た後も、この本がまだ自分の手元に残っていてくれて、たいして大切に扱ってもいないはずなのに、古いながらもたぶんその最上の状態を保っていてくれたのだと思うと、書けなくなってしまったのだ。
ずっと昔から持っていて、まだ本棚に残っている本と、同じくらい愛着があったのに、さまざまな理由で手元に残せなかった本たちのことを考えたら、なんだか酒が飲みたくなってきた。