大学以来の友人である古永真一は、フランス文学の研究者である。その彼が、昨年、初の単独訳書を出版した。『線が顔になるとき ―バンドデシネとグラフィックアート―』(人文書院)という本だ。
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ティエリ・グルンステンという、ベルギー生まれの著者による、いわゆる「マンガ学」の本。フランス語圏では、マンガのことを「バンドデシネ」と呼ぶのだ。
僕もマンガとは無縁の身ではない。この本の出版の話を聞いたときから、楽しみにしていた。
バンドデシネ(フランス語圏のマンガ)やアメリカン・コミックスから、ジャコメッティなどのファインアート、カリカチュア、手塚治虫や北斎まで。マンガ、デッサンを題材とした「顔」の図像学。
(オビより)
という本書を、僕は興味深く読んだ。
興味深かったポイントは、二つ。
一つは、この本で著者がカバーしている時間的な奥行きと、空間的な広がりに、びっくりしたことだ。日本でも北斎について触れられているが、ヨーロッパでも、ウィリアム・ホガースという18世紀の画家から現在のマンガ家にいたるまでが西洋美術史を背景に縦横に語られており、現代のマンガも、ヨーロッパから南北アメリカ、日本の作家や作品にまで広く言及されている。
実を言うと、僕は、日本でも昨今盛り上がっている「マンガ学」について、ほとんどフォローできていない。『テヅカ・イズ・デッド』も何年か前に買って読み始めたが、途中で止まっている。とはいえ、漠然と抱いていた「マンガ学」というものへの概念がくつがえされるような驚きを受けた。
もう一つは、上とも関連しているのだが、そうして広く言及される作家のなかに、アルゼンチンのムニョスをはじめとして、ぜひ日本でも紹介して欲しいと思えるマンガ家が何人もいたことだ(本書で取り上げられる作家のなかで、アメリカのロバート・クラムはたまたま読んでいたのだが、それは日本で翻訳本が出ていたからだ。チャールズ・ブコウスキーのような作家が好きな人は、きっと好きだと思う)。
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ただし、僕が興味深く読めたのは、もともと多少は海外のコミックに興味を持っていたことと、翻訳者が友人であるという点も大きいかもしれない。
というのは、この本、あの人文書院から出ているだけあって、アカデミックでわれわれ一般人にはなかなか手ごわい内容だからだ(余談だが、人文書院といえば、僕にとってはまず何よりも学生時代に読んだサルトルの『嘔吐』である。アカデミズムの代名詞のような出版社という印象があり、そこから古永が訳書を出すと聞いて、まず驚き、それからしみじみ感動した)。
たとえば、僕が面白く感じた、マンガ家がキャラクターを生み出すさいにぶつかる類型化の問題に関して述べられている部分は、こんな具合だ。
キャラクターの視覚的な造形化は、マンガ家の側からすると邪気のない作業とはいえないであろう。字義的な意味を必然的に逸脱して、現実に依拠するか、原型を活用するかでつねに緊張しつつ、個と類の間でバランスをとる作業は、読者による物語の受容を決定的なやり方で方向づける創造的行為である。美学と同様、表現によって人間に関する真の哲学が問題となるケースがあるのだ。したがって最終的に、顔はつねに二度、自らを露わにする。顔は、表現対象の内奥の自我だけでなく、作者の考えやシンパシーや偏見も露わにするのである。
(P.73より)
図版もたくさんあり、それほど厚い本ではないのだが、全体に密度の濃い文章が続いていて、本を読むのは早い方であろうと思われる僕も、読み通すのに時間がかかった。読み通すには読み通したが、難しいところも多く、どこまでちゃんと内容を理解できたか、正直、こころもとない。
マンガ学への造詣もほとんどないこともあり、ブログで記事にしたいと思ったが、うまく紹介できるという自信が持てなかった。
ということで、このブログでは初めての試みとなるのだが、本の解題も兼ねて、翻訳者である古永真一への、メールによるインタビューを企画。本人の快諾と協力を得て、掲載します。
■古永真一へのインタビュー
(以下、「里見」は里見蘭、「古永」は古永真一)
里見:現在の専門は?
古永:1930年代を中心とするフランス現代思想や文学から出発して、現在はイメージとテキストの関係を扱うような視覚文化論ですね。バンドデシネへの関心もその延長線上にあります。
里見:博士号はジョルジュ・バタイユに関する論文で取得しているけれど、どうしてBD(バンドデシネ)に関する研究を始めるようになったのですか?
古永:博士論文を書くと否応なしに一区切りつきますから、さてどうしようかというスタートラインに立つことになります。もともと日本のマンガには親しんでいましたが、フランスのマンガを「研究」しようとしたきっかけを振り返ってみると、四、五年前に「ジョルジュ・バタイユとバンドデシネ」という論文を書いたことでしょうか。
バタイユという人は、サブカル評論の先駆者みたいな人で、おもしろい論考をいくつも書いています。とはいえ、バタイユとマンガにはそれ以上の深い結びつきはありそうもないので、それ以降の論文では自然とBDという領域に特化していきました。それでBDについていろいろ調べてみるうちに、フランス語圏のマンガに対してそれまで抱いていたイメージ(「タンタン」「メビウス」「アメコミ的な作品が多い」)とは異なるような、多彩な作品があることがわかりました。
里見:本書で驚いたのは、フランス語圏はもちろん、広くヨーロッパやアメリカ、南米のマンガまで視野に入っているばかりでなく、日本でも北斎漫画(!)に始まり、手塚治虫や藤子不二雄や谷口ジローから、少女マンガやポケモンにまで言及されていること。フランス(あるいはヨーロッパ? それとも海外?)の「マンガ学」って、こういうグローバルな視点で語られるのが普通なのでしょうか?
古永:まず言えることは、筆者のティエリ・グルンステンさんが博識だということですね。背景としては、英語やフランス語を母国語として扱える欧米の研究者の恵まれた研究環境があるでしょう。日本では海外マンガの翻訳は少数ですが、フランスでは世界中のマンガが仏訳されています。日本のマンガも90年代に入ってさかんに仏訳されるようになりました。
日本人による日本のマンガ研究も目覚ましい成果を挙げていますが、グローバルなマンガ研究を推進するには、日本ではまだ言葉の壁が立ちふさがっている気がします。日本のマンガ市場はそれだけ規模も大きく成熟しており、完結しているのかもしれませんが、さらなる発展を遂げるためには外部からの刺激が必要だと思います。BDの紹介や翻訳はそのためのひとつの手段かと思います。このあたりは「内向き肯定論」(声高に主張する人はさすがに少ないですが)もありますから意見が分かれるかもしれません。
里見:本書について、翻訳者として、読者(既読も未読も含む)の方々に一番伝えたいことは何ですか?
古永:本書にはたくさんの図版が収録されていますが、フルカラーではありませんし、BDにはこれ以外の傑作もたくさんあるので、この本を読んでBDのイメージを決めないで欲しいということかなあ。
そもそも本書はBDの紹介や解説を目的として書かれたのではなく(巻末の略伝の部分などはそういうニーズを意識して作成しましたが)、「描かれた顔」という主題を論じた本です。マンガだけでなくヴィジュアル・アートや文学、映画、観相学、心理学、哲学とさまざまな領域を横断していますから、マンガに興味がある方以外にも読んでいただければと思います。描かれた顔がかもしだす摩訶不思議なおもしろさの謎、既成のマンガの枠を越えたBDの多様性を少しでも感じ取ってもらえれば、訳者冥利につきます。
哲学的な言い回しなどは難しく感じられるかもしれませんが(フランスの悪しき伝統?)、これも異文化の歯ごたえだと気にしないで読んでもらえればと思います。訳者の言い訳に聞こえるかもしれませんけど。
里見:ぜひ日本で紹介したい、おススメのBD作家・作品は?
古永:おススメを挙げればきりがないんですが、とりあえずロレンツォ・マットッティやフランソワ・スクイテンといった巨匠の作品は、もっと紹介されてしかるべきだと思います。色彩や線描の魅力が堪能できるはずです。昨年は『ユーロマンガ』という雑誌も創刊されて、私の好きなニコラ・ド・クレシーの作品も掲載されていましたが、こんな風に日本語で気軽に読めるようになるといいですね。
里見:BDに限らず、今後の活動予定を教えてください。
古永:BDがらみで本を書いてみたいですね。昨年から半期、首都大学東京で「バンドデシネ比較文化論」という授業をやらせていただいて、あれこれ考えたこともありますし。里見蘭の「島耕作」のノベライズもそうだけど、マンガも小説もそれぞれ独特の表現世界があって実におもしろい。どっちが優れているとかそういうことではなく、どちらも楽しんで「研究」できればと思います。これは日仏のマンガにも言えることでしょうね。優劣を競って自己愛的なナショナリズムに閉じるのではなく(日本のマンガのクオリティは言わずもがなですよね)、日本のマンガに対する関心の延長線上にBDの世界が新たに開けてくればいいなと思います。
(終わり)
対談形式にしているが、実際には、里見が質問事項をまとめてメールし、まとめて回答してもらう、という方法をとった。里見のインタビューアーとしての稚拙さはあるかもしれないが、やはり、翻訳者に紹介してもらうと、ぐっと伝わる気がする。バタイユがサブカル評論の先駆者というのは、代表的な小説を何作か読んだだけの僕は知らなかった。拙著にもさりげなく触れてくれた気配りも含めて、古永真一にはあらためて感謝したい。
インタビュー中に名前の挙がった作家に関しては、ぜひ翻訳してもらいたいものだと、友人としても一読者としても思う。