『闇の国々』ブノワ・ペータース=作 フランソワ・スクイテン=画(小学館集英社プロダクション)
これはすごい。
古永真一によるBDの邦訳としては、『イビクス――ネヴローゾフの奇妙な運命』(国書刊行会)につづく2作目(『闇の国々』は、原正人氏との共訳)。
しまった。『イビクス』の感想をまだ書いていなかった。いつか書けるだろう。
『闇の国々』は、ブノワ・ペータースが原作を、フランソワ・スクイテンが絵を担当するコミックだ。
スクイテンという名は、われわれ日本人には聞きなれない。が、BDの世界ではメビウスと並ぶ巨匠だという。本書はその初の邦訳単行本。
ペータースは、ヌーヴォー・ロマン風の小説やジャック・デリダの伝記などを書くばかりでなく、みずから出版社も立ち上げてユニークなBD作品などを世に送り出している作家だそう。
『闇の国々』は、このふたりによる、同名のパラレルワールドを描くシリーズ作品だ。これまでに正編、番外編がそれぞれ12作ずつ発表されている。
正編から『狂騒のユルビガンド』『塔』『傾いた少女』の3作品をピックアップして訳出したのがこの本だ。それぞれの作品は、異なる場所、異なる時代の出来事を描いている。
まず、スクイテンの絵が素晴らしい。
役者あとがきに「銅版画のように細密な線画」「ジュール・ヴェルヌの本の挿絵にみられるような、ヨーロッパの古き良き伝統を受け継ぐ」と書かれているとおり、とてもクラシカルで端正な絵だ。ときに荘厳さを感じさせるほどのダイナミズムと、画面のあらゆる細部までをもコントロールしようとする緻密さが同居している。
フキダシのほかには最小限の描き文字とごくわずかの効果線があるくらいで、いわゆる「漫符」はほとんど使われていないし、表紙のタイトル部を除いては、スクリーントーンも貼られていない。アシスタントを使わず、影の線の一本まですべてひとりで手がけるスクイテンは、1ページを描くのに1週間かけるという。
この画の力が、「中世や19世紀のヨーロッパを彷彿とさせる」異世界に生命を吹き込み、めくるめくセンス・オブ・ワンダーの核となっている。
この見事な絵によって描き出されるストーリーは、いずれもどこか寓意的だ。
『狂騒のユルビガンド』は、建物ひとつひとつという単位ではなく、都市全体がアール・デコ(+未来派+全体主義建築)的な意匠によって統一された――原作者のペータースによれば「秩序とシンメトリーに取り憑かれた」――ユルビガンドという街が舞台になる。
おどろくべきことにこの街は、都市計画建築家を自称するたったひとりの人物によって構想された。その人物ユーゲン・ロビックは、川によって北と南に分断されたユルビガンドにおいて、未開発のまま中断している北岸の工事の再開を都市の最高決定委員会に求めている(もちろん、北岸と南岸の非対称に我慢がならないからだ)。
そのロビックのもとに、工事現場から発掘された奇妙な物体が届けられる。
面ではなく12の辺で構成された立方体で、支柱は異常なまでに固い物質でできている。正体不明のこの物体が、ロビックの机にへばりついたまま増殖をはじめる。支柱を増やし、左右対称に新たな立方体をつくるばかりでなく、立方体そのものがどんどん巨大化し、気がつくとジャングルジムのようになっていた。既存の建物に食い込んで(侵食して?)さらに増殖と拡大をつづける網状組織は、やがて街全体を覆うほどになったところでようやく成長を止める。
立方体が傾いていたために遠目にはピラミッドのようにも見えるこの網状組織の支柱の一部は、行き来が禁じられていた北岸と南岸を結ぶ橋として機能し、禁を破って人々が往来することで都市に混沌(と新たな活気)をもたらす――。
この「網状組織」とは何だろうか?
その謎は作中では完全には解き明かされない。
訳者あとがきには「「ユルビガンドの立方体」は、カフカの『城』のように自由な解釈を誘発するメタファーなのだ」とある。なるほど。きっとそうだ。
『狂騒のユルビガンド』の作中には、イジドール・ルイという著者による「網状組織の伝説」というタイトルの論考(イラスト入りのテキスト)が挿入されている。
網状組織の正体についてこれまで提示されてきたいくつかの仮説が紹介されたあとで、テキストは、「ある解釈から別の解釈への絶えざる往復運動の中にこそ、それぞれの解釈に触れた後のどこか満たされぬ気持ちの中にこそ、真の教訓があるのだ」という著者の言葉でしめくくられてゆく。
これが、いたずらっぽい笑みを浮かべた作者たちからの示唆以外の何であろうか。
『闇の国々』で語られる物語は、読者にひとつの線的な解釈を強いたりはしない。想像力の飛翔による快楽を誘発する、美しいイメージをともなったたいへんに軽やかな運動で、難解さとも無縁だ。
が、この作品世界がどのように生み出されたのかを知ることは、鑑賞のさまたげにはならないだろう。巻末に付されたインタビューで、ブノワ・ペータースはこう語る。
このシリーズを始めた20歳頃、私たちにはそれぞれ基盤となる知識がありました。フランソワの場合は絵画や建築、私の場合は文学や自然科学といった分野です。それで、私たちはそれらの知識を掛け合わせて、いわば、「想像図書館」のようなものを作り上げていったんです。この「想像図書館」は、版画家のピラネージや建築家のオルタ、オーソン・ウェルズやフリッツ・ラングのような映画人、もちろんカフカ、ボルヘス、ジュール・ヴェルヌに至るまで、あらゆる分野へと広がっていきました。(中略)こういったものを独自の視点で掛け合わせ、混ぜ合わせていったんです。
互いの知の体系を持ち寄って共有する。『闇の国々』の各エピソードは、そのプールを発想の源泉、参照元としているのだ(「想像図書館」を彼らがもし視覚化するとしたら、ボルヘスの「バベルの図書館」になるような気がする)。
そのルーツは、作者ふたりの少年時代にまでさかのぼることができる。日本語版のためのまえがきから、ペータースの言葉を引用しよう。
<闇の国々>の冒険は、もとを辿れば友情の物語ということになる。フランソワ・スクイテンと私は、12歳の時に出会った。すべては1968年9月、ブリュッセルの中学校から始まった。私たちは同じクラスで席が近かった。フランソワはいつも絵を描いていて、私は文章を書くのが好きだった。ほどなくして私たちは『Go』という学級冊子を創刊する。
スクイテンが絵を描き、ペータースが文章を書く。
『闇の国々』は幼い頃の共同作業の延長線上に存在しているのだ。
子供の頃から根っこにあるのは、プロとしての仕事を超えた領域にある、ある種の共謀の感覚ですね。友愛に満ちた共謀……もしかしたら遊びの感覚に近いのかもしれません。(巻末のペータースへのインタビューより)
全編にあふれるこの遊び心が、『闇の国々』の大きな魅力になっている。
たとえば、『塔』。
だれもその全容を知らないほど巨大な建造物である塔で修復を任されている男が、直しても直しても崩壊に追いつかぬシーシュポス的徒労に倦んで自らの持ち場を放棄し、塔の謎を探る冒険に出るというお話だ。
これには、ペータースがその制作の背景を語る「石の夢」という小文が付されている。ブリューゲルが描いたバベルの塔がそもそもの発想の原点で、塔のヴィジュアルに大きな影響を与えたのは、彫刻家であるピラネージの『幻想の牢獄』という版画集。『塔』の主人公ジョヴァンニ・バッティスタの名もピラネージからとった。
憎まれ口を叩きながらもどこか純朴で憎めないこの初老の男のモデルは、豊かなひげを生やすようになってからのオーソン・ウェルズらしい。
「石の夢」の終わりには「オーソン・ウェルズ最後の役」というタイトルで、イジドール・ルイ(上にも出ているが、『闇の国々』の作中人物)によるスクイテンとペータースへのインタビューが掲載されていて、そのなかでふたりは、生前のオーソン・ウェルズと最後に仕事をしたばかりか、彼に最後にあった人物ということになっているのだ。
往きて還りし物語を<闇の国々>とわれわれの世界それぞれの側から並行して描くロマンティックで魅力的な『傾いた少女』では、われわれの世界の部分はロマン・フォト(写真漫画)によって表現されている。
そこで19世紀の画家を演じるのは、ペータースの出版社からグラフィック・ノベル『檻』を出した異色のBD作家――ということを、古永真一の講義で知った――のマルタン・ヴォーン=ジェームズで、さらにこの話では、ジュール・ヴェルヌが想像力によって<闇の国々>を訪れることであの数々のインスピレーションを得たというこになっているではないか。
ふたりの作者が、いかに子供心に忠実にこの作品を作っているのかがよくわかる。
友愛に満ちた共謀。それによって結ばれたふたりにもし才能があれば、彼らが作った作品は受けとる者に幸福感を約束してくれるはずだ。
<闇の国々>の物語に身をゆだねている間、僕は自分のなかに小さな冒険者の存在を終始感じていた(センス・オブ・ワンダーを体感するとき、ひとは常に十二歳以下の自分を意識のうちに召喚しているのだ)。
どちらかといえば(粉糖をまぶしていない)ファンタジー、いやむしろ幻想文学と呼びたくなるような趣だが、オビの「驚異のサイエンスフィクション」というフレーズもわるくない。こういうのが好きで、もしまだ迷っているひとがいるなら、ぜひ手にとってみることをおすすめしたい一冊だ。





