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『闇の国々』ブノワ・ペータース=作 フランソワ・スクイテン=画(小学館集英社プロダクション)

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これはすごい。

古永真一によるBDの邦訳としては、『イビクス――ネヴローゾフの奇妙な運命』(国書刊行会)につづく2作目(『闇の国々』は、原正人氏との共訳)。
しまった。『イビクス』の感想をまだ書いていなかった。いつか書けるだろう。

『闇の国々』は、ブノワ・ペータースが原作を、フランソワ・スクイテンが絵を担当するコミックだ。
スクイテンという名は、われわれ日本人には聞きなれない。が、BDの世界ではメビウスと並ぶ巨匠だという。本書はその初の邦訳単行本。
ペータースは、ヌーヴォー・ロマン風の小説やジャック・デリダの伝記などを書くばかりでなく、みずから出版社も立ち上げてユニークなBD作品などを世に送り出している作家だそう。

『闇の国々』は、このふたりによる、同名のパラレルワールドを描くシリーズ作品だ。これまでに正編、番外編がそれぞれ12作ずつ発表されている。
正編から『狂騒のユルビガンド』『塔』『傾いた少女』の3作品をピックアップして訳出したのがこの本だ。それぞれの作品は、異なる場所、異なる時代の出来事を描いている。

まず、スクイテンの絵が素晴らしい。
役者あとがきに「銅版画のように細密な線画」「ジュール・ヴェルヌの本の挿絵にみられるような、ヨーロッパの古き良き伝統を受け継ぐ」と書かれているとおり、とてもクラシカルで端正な絵だ。ときに荘厳さを感じさせるほどのダイナミズムと、画面のあらゆる細部までをもコントロールしようとする緻密さが同居している。
フキダシのほかには最小限の描き文字とごくわずかの効果線があるくらいで、いわゆる「漫符」はほとんど使われていないし、表紙のタイトル部を除いては、スクリーントーンも貼られていない。アシスタントを使わず、影の線の一本まですべてひとりで手がけるスクイテンは、1ページを描くのに1週間かけるという。
この画の力が、「中世や19世紀のヨーロッパを彷彿とさせる」異世界に生命を吹き込み、めくるめくセンス・オブ・ワンダーの核となっている。

この見事な絵によって描き出されるストーリーは、いずれもどこか寓意的だ。

『狂騒のユルビガンド』は、建物ひとつひとつという単位ではなく、都市全体がアール・デコ(+未来派+全体主義建築)的な意匠によって統一された――原作者のペータースによれば「秩序とシンメトリーに取り憑かれた」――ユルビガンドという街が舞台になる。
おどろくべきことにこの街は、都市計画建築家を自称するたったひとりの人物によって構想された。その人物ユーゲン・ロビックは、川によって北と南に分断されたユルビガンドにおいて、未開発のまま中断している北岸の工事の再開を都市の最高決定委員会に求めている(もちろん、北岸と南岸の非対称に我慢がならないからだ)。

そのロビックのもとに、工事現場から発掘された奇妙な物体が届けられる。
面ではなく12の辺で構成された立方体で、支柱は異常なまでに固い物質でできている。正体不明のこの物体が、ロビックの机にへばりついたまま増殖をはじめる。支柱を増やし、左右対称に新たな立方体をつくるばかりでなく、立方体そのものがどんどん巨大化し、気がつくとジャングルジムのようになっていた。既存の建物に食い込んで(侵食して?)さらに増殖と拡大をつづける網状組織は、やがて街全体を覆うほどになったところでようやく成長を止める。
立方体が傾いていたために遠目にはピラミッドのようにも見えるこの網状組織の支柱の一部は、行き来が禁じられていた北岸と南岸を結ぶ橋として機能し、禁を破って人々が往来することで都市に混沌(と新たな活気)をもたらす――。

この「網状組織」とは何だろうか? 
その謎は作中では完全には解き明かされない。
訳者あとがきには「「ユルビガンドの立方体」は、カフカの『城』のように自由な解釈を誘発するメタファーなのだ」とある。なるほど。きっとそうだ。

『狂騒のユルビガンド』の作中には、イジドール・ルイという著者による「網状組織の伝説」というタイトルの論考(イラスト入りのテキスト)が挿入されている。
網状組織の正体についてこれまで提示されてきたいくつかの仮説が紹介されたあとで、テキストは、「ある解釈から別の解釈への絶えざる往復運動の中にこそ、それぞれの解釈に触れた後のどこか満たされぬ気持ちの中にこそ、真の教訓があるのだ」という著者の言葉でしめくくられてゆく。
これが、いたずらっぽい笑みを浮かべた作者たちからの示唆以外の何であろうか。

『闇の国々』で語られる物語は、読者にひとつの線的な解釈を強いたりはしない。想像力の飛翔による快楽を誘発する、美しいイメージをともなったたいへんに軽やかな運動で、難解さとも無縁だ。
が、この作品世界がどのように生み出されたのかを知ることは、鑑賞のさまたげにはならないだろう。巻末に付されたインタビューで、ブノワ・ペータースはこう語る。

このシリーズを始めた20歳頃、私たちにはそれぞれ基盤となる知識がありました。フランソワの場合は絵画や建築、私の場合は文学や自然科学といった分野です。それで、私たちはそれらの知識を掛け合わせて、いわば、「想像図書館」のようなものを作り上げていったんです。この「想像図書館」は、版画家のピラネージや建築家のオルタ、オーソン・ウェルズやフリッツ・ラングのような映画人、もちろんカフカ、ボルヘス、ジュール・ヴェルヌに至るまで、あらゆる分野へと広がっていきました。(中略)こういったものを独自の視点で掛け合わせ、混ぜ合わせていったんです。


互いの知の体系を持ち寄って共有する。『闇の国々』の各エピソードは、そのプールを発想の源泉、参照元としているのだ(「想像図書館」を彼らがもし視覚化するとしたら、ボルヘスの「バベルの図書館」になるような気がする)。
そのルーツは、作者ふたりの少年時代にまでさかのぼることができる。日本語版のためのまえがきから、ペータースの言葉を引用しよう。

<闇の国々>の冒険は、もとを辿れば友情の物語ということになる。フランソワ・スクイテンと私は、12歳の時に出会った。すべては1968年9月、ブリュッセルの中学校から始まった。私たちは同じクラスで席が近かった。フランソワはいつも絵を描いていて、私は文章を書くのが好きだった。ほどなくして私たちは『Go』という学級冊子を創刊する。


スクイテンが絵を描き、ペータースが文章を書く。
『闇の国々』は幼い頃の共同作業の延長線上に存在しているのだ。

子供の頃から根っこにあるのは、プロとしての仕事を超えた領域にある、ある種の共謀の感覚ですね。友愛に満ちた共謀……もしかしたら遊びの感覚に近いのかもしれません。(巻末のペータースへのインタビューより)


全編にあふれるこの遊び心が、『闇の国々』の大きな魅力になっている。

たとえば、『塔』。
だれもその全容を知らないほど巨大な建造物である塔で修復を任されている男が、直しても直しても崩壊に追いつかぬシーシュポス的徒労に倦んで自らの持ち場を放棄し、塔の謎を探る冒険に出るというお話だ。

これには、ペータースがその制作の背景を語る「石の夢」という小文が付されている。ブリューゲルが描いたバベルの塔がそもそもの発想の原点で、塔のヴィジュアルに大きな影響を与えたのは、彫刻家であるピラネージの『幻想の牢獄』という版画集。『塔』の主人公ジョヴァンニ・バッティスタの名もピラネージからとった。
憎まれ口を叩きながらもどこか純朴で憎めないこの初老の男のモデルは、豊かなひげを生やすようになってからのオーソン・ウェルズらしい。
「石の夢」の終わりには「オーソン・ウェルズ最後の役」というタイトルで、イジドール・ルイ(上にも出ているが、『闇の国々』の作中人物)によるスクイテンとペータースへのインタビューが掲載されていて、そのなかでふたりは、生前のオーソン・ウェルズと最後に仕事をしたばかりか、彼に最後にあった人物ということになっているのだ。

往きて還りし物語を<闇の国々>とわれわれの世界それぞれの側から並行して描くロマンティックで魅力的な『傾いた少女』では、われわれの世界の部分はロマン・フォト(写真漫画)によって表現されている。
そこで19世紀の画家を演じるのは、ペータースの出版社からグラフィック・ノベル『檻』を出した異色のBD作家――ということを、古永真一の講義で知った――のマルタン・ヴォーン=ジェームズで、さらにこの話では、ジュール・ヴェルヌが想像力によって<闇の国々>を訪れることであの数々のインスピレーションを得たというこになっているではないか。
ふたりの作者が、いかに子供心に忠実にこの作品を作っているのかがよくわかる。

友愛に満ちた共謀。それによって結ばれたふたりにもし才能があれば、彼らが作った作品は受けとる者に幸福感を約束してくれるはずだ。

<闇の国々>の物語に身をゆだねている間、僕は自分のなかに小さな冒険者の存在を終始感じていた(センス・オブ・ワンダーを体感するとき、ひとは常に十二歳以下の自分を意識のうちに召喚しているのだ)。
どちらかといえば(粉糖をまぶしていない)ファンタジー、いやむしろ幻想文学と呼びたくなるような趣だが、オビの「驚異のサイエンスフィクション」というフレーズもわるくない。こういうのが好きで、もしまだ迷っているひとがいるなら、ぜひ手にとってみることをおすすめしたい一冊だ。

『終わり続ける世界のなかで』

粕谷知世さんよりご恵投いただいたこの本について語るのは、難しい。なぜって、粕谷さんと俺はほぼおない年だし、この小説の主人公である岡島伊吹という名の女の子(物語の終盤では大人になる)とは生年がおなじだからだ。   


わたしが生まれたのは一九六九年、アポロが月へ到着し、人類が初めて地球外の天体の土を踏んだ年だ。翌七〇年には大阪で万国博覧会が開催された。

 

この小説で、主人公が生まれた年は重要な意味を持つ。おない年の俺はその意味性に過剰に反応する読み方を好んでしたので、平均的な読者(そんなものがいるとして)よりもうんと偏っていると断言できるからだ。俺にできる最善は、「主人公とおなじ生年の人間」としてこの小説の読書体験を語ること、だろうか。 
   
(※「ネタバレ」が嫌いなひとはこの先読まないほうがいいと思います)    

ひとたびそうやってスタンスを決めてみれば、この小説について語るのはじつに簡単だ。    
その昔、“ノストラダムスの大予言”というものを本気で信じた子供たちがいた。『終わり続ける世界のなかで』は、つまりはそれについての小説だ。
   

前の晩、わたしたちはテレビを観て、自分が三十までしか生きられないことを知った。

   

一九九九年の年、七の月      
空から恐怖の大王が降ってくる      
アンゴルモワの大王を復活させるために      
その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗りだすだろう

はるか昔――1973年のことだ――『ノストラダムスの大予言』という本が出版され、ベストセラーになった。俺の家にもあった。五島勉というひとが書いた、背表紙の上のところに「NON」とロゴの入った新書だ。居間にある父親の本棚の、新書が並んでいるなかに挿してあった。小学校の2年生くらいだろうか、大人の本に興味を持ちはじめたときページを開いてみて衝撃を受けた。とんでもなくまがまがしい本だったのだ。 

 
手元に現物がないのでここから先は記憶だけで書くが、いちばんインパクトがあったのは、口絵ページの、公害(水質汚染)が原因で奇形になった魚の写真だ。俺の記憶だと、ピラニアみたいな銀色のぬめっとした魚に、ゲゲゲの鬼太郎の親父の脚みたいなのが生えてるように見える写真だった。その写真を見ただけでたっぷり半日はブルーな気分になれた。エロやグロへの耐性も低い頃だったし、その写真が合成かもしれない、と疑うようなリテラシーもなかった。と同時に、だからこそ妙にその本が気になったのもたしかだ。
   
それは、世界の終わりについて書かれた本だった。
    
16世紀のフランスに、ノストラダムスという名の予言者がいた。生前からよく当たる占星術師として王様のような偉いひとたちからも重用されていたが、本当のすごさがわかるのは、その死後だ。彼が遺した『諸世紀』という名の予言書が、死後数百年にわたって起こる出来事や世相について、ことごとくびしびしと的中させていたのだ。ヒトラーの出現や第二次大戦や核兵器、それから公害といった、20世紀の大事件や社会現象まで。
    
ノストラダムスが遺した最大の予言は、人類の滅亡に関するものだった。
    
ノストラダムスは、予言を、そのものズバリ、という書き方ではなくて、四行詩という形で遺した。上の引用部にあるのが、人類の滅亡を予言した四行詩だ。本のなかで、五島勉はそう解釈する。人類は、1999年の7月に滅亡する――と。
    
このくだりを読んだときの絶望感はハンパなかった。伊吹とおなじように俺も計算してみたのだ、人類が滅亡するとき、自分が何歳になっているか。30歳だった。30歳? そうなるまでにはいまからだとまだ永遠の半分くらいはたっぷりかかりそうな気がするけど、それって現実的には死ぬにはたぶん早すぎる年齢だよね? ていうか、ふつうに生きていればやがて俺は、アンゴルモワの大王を復活させるために空から恐怖の大王が降ってくる――本のなかで五島勉はこれを核戦争と解釈していたと思う(俺は宇宙人の侵略を想像していた)――場面に立ち会わなくてはいけなくなるわけだ。五島勉は、人類のすべてが死に絶えるわけではない、と書いていたけど、そんな悲惨な状況を経験してまで生き延びたいとは思えなかった。たしかそのちょっと前に、手塚治虫の『火の鳥』の「未来篇」を読んでいて、孤独のまま不死でいる地獄のおそろしさをいやってほど印象づけられていたからだ(大人になってみると、あれはそれだけの話じゃなくて、『火の鳥』のほかのエピソードとおなじように手塚治虫のフェティシズムが炸裂しまくった漫画だとも思えるが)。そうか。いま気づいたが、『火の鳥』の「未来篇」という下地があったから、『ノストラダムスの大予言』の人類滅亡話もすんなり受け入れられたんだな。
    
たしかに俺はなんでも真に受けやすい子供だった。シャレが通じにくいやつだった。でも、“予言”を信じたのは、どうやら俺だけじゃなかったらしいのだ。この小説の出版を記念したトークショーで司会の大森望さんが「ノストラダムスの大予言を信じていたひと?」と訊ねると、小さな会場だが半数近くが挙手していた、っていう話はこのブログのひとつ前の記事に書いたとおり。もちろん、小説の主人公である伊吹もだ。
    
彼女は、小学6年生のとき、この本をもとにつくられたテレビ番組――まるでドキュメンタリーのように演出されていた――を観て、自分が30歳までしか生きられない運命にあることを「知る」。
    
すごいのは、彼女がそのトラウマを、1999年の7月を経て2000年を迎えるまでずっと大事にかかえ続けることだ。というか、本書は、“予言”の呪縛を深く刻印された少女のその後の人生と心の軌跡を描いた小説なのだ。
    
ふしぎな小説だ。    
ファンタジーじゃない。ミステリーでも恋愛小説でもない。ではなにかといえば、「人生いかに生きるべきか?」という問いに、粕谷知世という作家が“ノストラダムスの大予言”を軸にしてまっこうから答えようとして書いた小説だ、ということになるだろう。
    
(※ここから先は本格的に「ネタバレ」になってゆくのでご注意を)
   
真に受けやすい子供だった俺は、けれどいつしか“予言”を信じ込んでいた自分を客観視できるようになってゆく。もちろんあらゆる生物とおなじく人類も滅亡への道を歩んでいる。下手を打って自滅しそうな気配もけっこうある。でも1999年に人類は滅亡しない。ていうか、そんなかたちで一気にドラマチックに世界が終わることはたぶんない。そんなふうに「現実的に」考えるようになっていったのだ。
    
でも、だからといってその認識が「救い」になったかといえば、そうでもない。とくに、思春期や若さゆえの生きづらさをめいっぱいかかえてあえいでいた時期には、むしろ明日、“ノストラダムスの大予言”さながらに世界が終わってくれたらどれだけすっきりするだろう、などといちどならず考えたものだ。逆に言えば、子供の頃に植えつけられた終末観がまだしぶとく息づいていたということなのかもしれない。いまの若い世代のひとからすれば、そのナイーブさは、信じがたいほど滑稽に見えることだろう。ところがこれって、笑いごとだけですむ話でもないのだ。
    
トークショーの朝、新聞を開いたら「オピニオン」というコーナーに新潮社の出版部長の中瀬ゆかりさんが、3人いるコメンテーターのひとりとして登場していた。この日のテーマは「オウムという時代」。オウム事件に対して抱いた嫌悪感を語ったあとで、中瀬さんのコメントはこう続く。
   

とはいえ、私は、事件の中心になった信者を突き動かした心情が理解できる気もします。      
99年7月に世界は滅亡するという「ノストラダムスの大予言」が事件に影響したと指摘する声は、当時から出ていました。私は信者たちと同世代です。70年代の子どもたちを震撼(しんかん)させたノストラダムスが描く終末を、彼らと共有しています。      
(朝日新聞 2011年11月25日15面より引用)

シンクロニシティ、という単語が浮かんだ。それは、十代の頃ポリスのアルバムのタイトルとして知って以来、カッコよさそうだがよくわからない言葉であり続けている。大人になるにつれ、この言葉そのものにある種のナイーブさの匂いが強く感じられるようになってもきた。そのナイーブさは、たぶんオウムの事件と無関係ではない。そんなことを考えながらトークショーに向かうと、会場に当の中瀬さんがいて二度びっくり。

   
終末観はふつう宗教とセットになっている。けれど『ノストラダムスの大予言』は特定の宗派へと読者を誘い込むような仕掛けの本ではなかった、と思う。では、いちど終末の恐怖を知ってしまった者たちの心の受け皿はどこにあるのか。
    
“予言”が伊吹のなかでトラウマ化して強迫観念となるにあたっては、小学校3年生以来の親友であった瑞穂という少女の存在が大きな役割を果たす。瑞穂にはメサイア・コンプレックスの気があった。それは伊吹にも伝染する(むしろ共有を強いられる)。予言された破滅から人類を救う方法はないのか? それを見つけることが人生の目的になるのだ。真面目な伊吹はその強迫観念を大学生になるまで保持し続ける。既存の宗教は彼女のすぐそばをかすめるが、彼女がそれにからめとられることはなかった。大学に入った伊吹は入学式の当日、新入生の勧誘を行うサークルのひとつが、つぎのような垂れ幕を出しているのに出くわす。
   

「あなたはノストラダムスの予言を信じていますか by世界救済委員会」

世界救済委員会。なんともうさん臭い名前のサークルだ。でも伊吹はそう思わない。入会したあとで、こんなふうに考える。   

この人たちとなら、どうしたら世界を救えるのか、具体的な方法を話し合うこともできる。そう思ったら、自分の幸運を神に感謝したくなるほどだった。

どこまでも真面目な子なのだ。孤独な彼女にとっては、大学に居場所を見つけたことも大きい。ほどなく明かされる世界救済委員会の「正体」についてはここではあきらかにしないが、サークルのひとりから、“予言”にからんでつぎのような詰問を受ける。   

「あ、本気で怒ったね。だけど、ここが肝心なところだから、よく聞いてほしいんだ。人間っていうのは、自分にとって本当に不都合なこと、嫌なことは信じようとしないものだ。今の岡島さんみたいに『でたらめを言うな』と怒って聞こうとしない。明々白々、否定しようのない事実を突きつけられてさえ、なんだかんだと言い逃れを試みる。このノストラダムスの予言のように、どうとでも解釈のできる予言なら頭ごなしに否定するのは簡単なことだ。なのに、岡島さんは今日まで世界の破滅を信じていた。心の底で世界が滅びることを望んでいたんじゃないかって言われたって仕方がないところはあるんだよ」

世界の滅亡を信じる気持ちの裏にはその実現への願望が潜んでいる。真面目な伊吹にとってこれは痛い指摘だった。彼女はかつて、たったいちどだがじっさいに、そんなふうに思ったことがあったのだ。

   
その感情と、物語の終盤で彼女は再会することになる。1995年のことだ。このときに伊吹を襲う激情は、彼女をとり巻く環境の影響もあって、かつて抱いたものとはくらべものにならないくらいに破壊的なものだった。そして、まるでその情念にシンクロするかのように、彼女の日常を揺さぶるような大事件が発生する。その事件は伊吹に、カタストロフィと再生とを同時にもたらすものだった。“ゲド戦記”の第一作『影との戦い』で主人公のゲドの身に起きたこと、漫画版の『デビルマン』のラストシーンでデビルマンの身に起きたことを、伊吹もまた体験する――。
   
トークショーのなかで大森さんは粕谷さんに、これは自伝的小説なの? と訊ね、粕谷さんはそうではない、と答えていた。大森さんがそう質問した意味はよくわかる。主人公の身に起こる出来事が事実とかけ離れているとしても、この物語の主人公はあきらかに作者の分身のように感じられるからだ。じっさい、トークショーのあとの打ち上げの席で、粕谷さんご本人から、そう読んでもらってもかまわないというコメントを俺はもらっている。つまりこれは、粕谷知世という作家が、みずからのなかにかつて存在したある種のナイーブさをひたむきに見据えて、それを小説へと昇華させた作品なのだ。つまり、「イタい過去」に関する告白体小説、2ちゃんねる風に“厨二病時代の黒歴史を解放”した物語だと言い換えることだってできなくもない(そんなふうに言い換えたくなるのは、俺がゴシップ好きな人間だからだろう)。すごいと思うのは、それをマーケティングや一切の諧謔とは無縁に、作家の本能にしたがってまっすぐに書ききったことだ。これって、けっこうな勇気と信念を必要とすることだと思う。もっとも、そう思うのは、俺がついつい大向こうへのウケを意識しすぎる小説家だからかもしれないが。俺もいつか、こんなふうに小説を書ける日が来るだろうか。

トークショーでも打ち上げでも、粕谷さんがなんだかまぶしく見えた夜だった。

トークショーに出席

【これまでのお話】   
日本ファンタジーノベル大賞の授賞式に出席した俺は、二次会、三次会を経て平山瑞穂さんや久保寺健彦さんらと盛り上がって遅くまで(ってことは翌朝早くまで)飲んで重い二日酔いとともに目を覚まし、アルコールが分解される過程でひどい自己嫌悪に悩まされる。今日は今日とてファンタジーノベル大賞がらみのトークショーの日。気心の知れた(と俺が勝手に思ってるだけかもしれないが)作家さんたちも参加するし、宣伝もさせてもらえるということで名乗りを挙げたのだが、ひとつ心配なことがあった。それは、せっかく自著を紹介しても、会場の人がだれも買ってくれず、サインも求められず、ひとりでぽつんと長机を前に座ることになったらどうしよう、というもの。サクラを仕込んでおけばよかった、と悔やんだがあとの祭り。ヘパリーゼとハイチオールCをざらざらと胃に流し込んで、寒風のなか、俺はひとり、会場のある新宿へと向かうのであったが――。    

              ×           ×           × 

粕谷知世さんもブログで書いてるけど、今回の受賞者ふたり、勝山海百合さんと日野俊太郎さん、漫才みたいな息の合ったかけ合いで会場を湧かすとか、昨日受賞したばかりとは思えない舞台度胸とコンビっぷり。日野さんは劇団経験者だから納得できる部分もあるけど、豪快で天真爛漫な海百合さんのキャラは素だよね、ほとんど。この賞の先輩である粕谷さんがいちばんういういしく見えた。定員40名というアットホームな雰囲気だったからかもしれないが、大森望さんの司会も、「書くこと 書き続けること」というトークショーのテーマはほぼ完全に無視――「誰、あのタイトル考えたの(笑)?」ってあっさりスルー――の自由な進行で、斉藤直子さんいわく「けっこうなまなましい」業界話がぽんぽん飛び出していた。   

これも斉藤さんや沢村凛さんに言われてあとで気づいたが、お客さんの年齢層はけっこう高かった。つまり俺と同世代(かちょっと上)の人が多かったように思う。なるほど。だから大森さんが途中、「ノストラダムスの大予言信じてたっていう人?」っていう質問をしたら、半分くらいが手を挙げてたわけだ(なぜこんな質問が出たか。その理由についてはべつの記事で書く予定)。   

ただ、これは世代的なことだけでもないと思う。手を挙げてる人がけっこうたくさんいるのを見て、俺は思ったのだ。ああ、ここに来ている人たちは、日本ファンタジーノベル大賞をわりと昔から――ひょっとしたら最初から――読んできている人たちなのかもしれないな、と。つまり、この賞を支えている読者の代表、コアなファンだ。ファンタジーの定義、っていうのが今回の選考会で紛糾の焦点になったみたいだけど、この賞の受賞作をずっと読んでるような人って(そういう人が実在するとして)ファンタジーってものをどう考えてるかどうかはともかく、やっぱり、そんな質問に対して素直に手を挙げちゃうようなナイーブなところが共通していたとしてもふしぎじゃない気がするんだよね。俺も挙げたけど。   

まあいい。
   
この賞ほどなんでもありな(登竜門としての)文学賞は他にないと思うが、回を重ねた結果として、系統みたいなものが存在する。それでいうと、海百合さんの『さざなみの国』は伝説の第一回受賞作『後宮小説』や仁木英之さんの『僕僕先生』などに連なる中華ファンタジーで、日野さんの『吉田キグルマレナイト』は、森見登美彦さんの『太陽の塔』に連なる(っていうか、いまや一大ジャンル(?)になった)京都ファンタジーってことになるらしい。
   
大森さんが、過去の受賞作で好きな作品は、と質問したら、海百合さんは『後宮小説』、日野さんは『太陽の塔』と、それ以上にはまったのが小田雅久仁さんの『増大派に告ぐ』という答えだった。ほう。   
(そういえば、会場には小田さんの担当編集者もいて、もうすぐ長編第二作が出ると力強く宣言していた。小田雅久仁ファンの皆さん、朗報だ)
   
トークショーの最後に、狭い会場の最前列に座っていた過去の受賞者が紹介される。   
沢村凛さん、斉藤直子さん、西崎憲さん、そして俺。   
会場の前の机に、俺の本が二冊置いてあったので、それを持って自己紹介をする。なんだか自分がものすごく場ちがいな人間に思えて落ち着かない。俺にはもうわかっていた。ここに来ている客のだれひとり、この俺つまり里見蘭という作家になんてこれっぽっちも興味を持っちゃいない。そういうことはわかるものだ。まあ、でも、飲みかけの缶ビールが飛んでくることもなかったし、なんとかやり終えた。
   
それから作家はいったん控え室に引き上げることになった。本を買ったお客さんがいれば、その作家は会場に戻ってサインをする。俺が心配していたようなさびしい事態にはならずにすむってことだ。が、俺のサインを欲しがるお客さんがあらわれる様子もなかった。つまらないので、呼ばれてもいないのに会場を覗きに行った。
   
トークショーに出演した三人はもちろんだが、西崎さんも新刊『ゆみに町ガイドブック』にサインをしている。西崎さんの翻訳で『ヘミングウェイ短篇集』を読むまで、ずっとヘミングウェイが苦手だった(あの闘牛士の話も、たぶん何種類かの訳で読んでるが、心にしみたのははじめてだった)。俺も新刊を買ってサインしてもらおっかな、と一瞬思ったが、やめた。素直になれない気分だったのだ。きっとだれも俺にサインを求めてこなかったからだろう。でも、その日俺が電車のなかで読むためにカバンに入れていたのは、文庫になったアントニイ・バークリーの『第二の銃声』だったから、許してもらうことにしよう。

昨日と今日

二日酔いの最大の問題は、胸のむかつきや頭痛や倦怠感といった器質的な不快感じゃない。アルコールが抜けてゆく間に生じる、自己嫌悪の感情だ。飲みすぎたのを後悔する、なんていう段階からはとっくに卒業ずみだ。それでも、酔っている最中の自分の言動を思い出して「あ痛たたた……」と脂汗を流すことは、こんな年になっても、ままある。昨夜のように同業者や編集者たちが一同に介するパーティのような場合には、けっこうな確率で。   

自分がいかに周りの人に自分を売り込むために虚勢を張り、傲慢に、結果として無神経にふるまっているか、フラッシュバックがまざまざと突きつけてくれちゃうのだ。いやこれって、器質的な不快感とおなじように、脳内での化学物質の反応によるものではないかと思うんだけど(つまり、意志とは無関係に生じているってことね)、陽気で社交的な男を演じることによって俺がその下に隠そうとしていたものははたしてなんだったのか、なんてことをうだうだと考えたりしてしまうのである。   

おお、神様、もしいらっしゃるのなら、そして、この世から二日酔いを断絶するのが不可能であるのなら、せめてそのときに私に分裂を強いるのはやめてください。なんといっても、俺はこれから先も自分のエゴとうまくつき合っていかなきゃならんのです――。
   
でも、そんな僕の二日酔いは、昨夜催された「第23回日本ファンタジーノベル大賞」の授賞式の素晴らしさに傷をつけるものではまったくない。ものすごく大盛会、なんていう頭のわるい表現を使ってしまうが、例年恒例の会場であるクラブ関東は人でごった返し、熱気に満ちていた。   

大賞を受賞された勝山海百合さんも、優秀賞の日野俊太郎さんも、ヴィジュアルの時点からあざやかにキャラが立っており、堂々として、お話しても楽しい方々だった。   

前の記事に書いたとおり、今日はこのおふたりと、新刊を出された粕谷知世さんをくわえた三人による日本ファンタジーノベル大賞を記念してのトークショーが、大森望さんの司会によりブックファースト新宿店で行われる。僕もそこに参加させていただくことになった。壇上に上がるわけではないが、過去の受賞者はいちばん前の列に座り、会場の皆さんにも紹介してもらえるのだ。著書もならべてもらえるそうだ。   

こういうイベントには観客としても参加したことがないし、なんといっても日本ファンタジーノベル大賞の現在と過去の受賞者の対談には興味があった。テーマは「書くこと 書き続けること」。寡作だが、着実に著書をものされている粕谷さんがそれについてなにを語るのか聞いてみたいと思った。自分の著作を来場者に紹介してもらえるというのも魅力的だ。僕にはまだこんなイベントを行えるほどの知名度はない(書店員さんたちにイベントの運営といういわばエキストラな仕事を快く引き受けてもらうためにはもっと売れる作家にならなきゃ駄目だろう)。過去の受賞者としてこのような形で参加させてもらえることは、だから僕にとってとても貴重な機会でもあるのだ。   

しかし、昨夜西崎憲さんにうかがって知ったのだが、著作をならべてもらえるというのは、それを買ってくれた人にサインをするということを意味するらしい。どうしよう。俺の小説をその場でふと思いついて買ってくれるひとなんて、まずいないぞ。映画『レスラー』で観た、閑散としたサイン会場で、長机の上に自分のグッズを積んで所在なげに客を待つベテランレスラーのさびしげな姿が脳裏によみがえってきた……。落涙必至だ。

唯一残された望みは新潮社がさくらを仕込んでくれることだが、もちろんそんなことは期待できない。
   
なんて、こんなことをグダグダ考えているのもきっと二日酔いの影響だ。   
だいたい今日の主役は俺じゃない。   
西崎さんも沢村凛さんも西條奈加さんも、それからおしのびで斉藤直子さんもいらっしゃる。ということで、先輩の皆さんや会場のお客さんに会うのを楽しみに今日は行ってきます。

日本ファンタジーノベル大賞決定記念トークショー 作家になること、書き続けること

11月24日は、第23回日本ファンタジーノベル大賞の授賞式。その翌日、今回の受賞者である勝山海百合さんと、日野俊太郎さん、第13回の受賞者で新潮社から新刊『終わり続ける世界のなかで』が出版された粕谷知世さんによるトークショーが、この賞の後見役ともいうべき大森望さんの司会で開催されます。
 
ブックファーストのHPへ
   

ツイッターを拝見したら、西崎憲さんも行かれるみたいです。他にも、歴代の受賞者の作家さんたちの参加があるかも。11月25日(金) 19:30より ブックファースト新宿店にて。

ファンタジーの霧、あるいは潜在意識が私のためにしてくれること

(※食事中の方、下の話が苦手な方は、以下の文章を読まないことをおすすめします)

ものすごく酔っぱらった晩のことだ。   
僕は大きな旅館にいる。『千と千尋の神隠し』に出てきそうな、木造の古めかしい建物だ。トイレを探しているのは、尿意を催しているからだろう。    
老舗の鰻屋が何十年もたれをつぎ足しつぎ足しするように、何度も細かな増築を重ねてきたのか、廊下や階段が入り組んで、旅館はまるで立体の迷路のようだ。   
トイレを求めて僕はいくつかの部屋に踏み入る。家族づれのものと思われる部屋。合宿に来た運動部のものと思われる部屋。はちきれそうな膀胱が僕をとても大胆にしているらしい。けれど、どの部屋にもトイレはついていない。   
共同便所を探すしかないようだ。   
やがて僕は、廊下の向こうに「便所」と書かれたプレートを見つける。   
助かった。   
でも、ドアを開けた僕は面食らう。そこは風呂場だったのだ。   
タイル敷きで、鏡のついた洗い場が並んでいる。湯気の向こうには湯船も見えた。いわゆる大浴場だ。さいわいなことに男湯みたいだ。   
でも、トイレはどこだ?   
あった。   
風呂場のなかに張り出した一角。ドアがついている。そのなかのようだ。   
すりガラスの入ったドアを開ける。   
そこにあったのは――向かい合わせに並ぶ、洗い場のように見えた。   
隣同士は仕切りでへだてられているが、便器はない。タイルの床に排水口が見えるだけ。   
ここでしろ、というのか? ていうか、してもいいのか。流せば問題ない……のか?   
百歩譲って、小便ならまあそうかもしれない。でも今度は便意まで催してきてしまったぞ。困った。   
ためらっていると、反対側の壁についていたドアが開いて人が入ってきた。   
タオルを体に巻いた、それ以外には裸の女性のようだ。   
女湯の一隅に迷い込んでしまったのか。まずい。僕はあわてて入ってきたドアから外へ出た。   
駄目だ。ここは風呂場だ。便所じゃない。

 

ほとんど途方に暮れながら、館内をうろうろと歩き回る。   
やがて、どこをどう歩いたのか、僕はようやく便器を見つける。   
二十畳敷きくらいのがらんとした和室。その中央に、和式の便器はあった。   
以前、古い旅館に泊まったとき、和式トイレで便器の周囲が板張りということはあったが――飴色に変色した木にしみついたかすかな臭気を思い出す――便器の周囲に畳が敷きつめられている便所というのは、はじめての経験だ。    
なんというストレス。   
板張りのトイレでさえ、掃除が大変だろうなと気を遣ったものだが、ましてや畳だ。   
便意は去っていた。こっちがしたいのは小便だが、立ってするのはもってのほか、しっかりと腰を落として、狙いあやまたず、飛沫のひとつもはね散らかさないよう最大限の注意を払ってことに当たらなくては――破裂しそうな下腹部をかかえたまま、僕は意外と冷静に考えている。    
しかし落ち着かない。    
本当にここでしていいものなのだろうか?    
畳も、部屋をとり囲む襖も、金色がふんだんにちりばめられた装飾がかったもので、いずれも高価だとひと目でわかる。    
ひょっとしたら、ここは僕ごときが入っていい場所ではなく、やんごとなき方々のためにつくられた特別な空間なのではないか。    
でも、僕の躊躇は、差し迫った欲求によって押し切られる。    
もう一刻の猶予もない。    
ええい、ままよ。    
僕はズボンのチャックを開けて、ふくれ上がった膀胱を解放してやるための準備をする。   
なぜか、もう腰を落とすことなんて考えず、立ったままで小便をする。   
それにしても、このトイレでは、なんというか「した気」がしない。いっこうに解放感が訪れないのだ。なんというストレス。

 

――そこで目が覚めた。   
喉が渇いている。下腹部が重い。布団を出て、トイレへ向かう。小便をしながら、さっき見ていた夢を思い出す。   
小便をしているのに、すっきりしない夢。   
もしかして、あれがストレスを感じない、ごく当たり前の便所だったら、僕は夢のなかでも心おきなく膀胱を解放してやっていたのかもしれない。そして……。   
うーむ、あまり想像したくないものだ。   
たぶん、そういうことにならないよう、僕の潜在意識がわざわざあんな奇妙なトイレをデザインしてくれたのだろう。思いっきり尾篭な『インセプション』といったところか。人間の脳ってすごい。なーんて思いながら、2リットルのペットボトルから、ごくごくと冷たい水を飲む。アルコールを分解するために、肝臓が大量の水分を要求しているのだ。   
そしてまた僕は布団に戻って眠りにつく。

 

僕はニューヨークの街角にいて、尿意をおぼえている。   
日本とちがって、無料で使えるトイレは極端にすくない。   
とあるビルの地下に赤と黄色でデザインされたファストフード店を見つけて、入る。トイレはあった。そこを使う権利を得るために、尿意をこらえつつ、僕はカウンターで黒人の店員から注文したホットドッグを受けとった。
そのとき、とんでもないものに気づく。   
足もとに、大きな糞が落ちているのだ。犬の糞らしい。きっと大型犬のだろう。食べ物屋でこんなことがあっていいのだろうか。激しい不信の念が僕を襲う。   
とりあえずホットドッグを食べるのはよそう。そもそも僕がこの店へ入った目的は、トイレなのだ。   
僕はトイレへ向かう。   
だが――なんとしたことだろう、ドアにはロックがかかっていて、開かないではないか。   
僕はドアと格闘する。ドア、というより、巨大な鉄のかんぬきみたいなロックと。ぶっとい鎖まで何重にも巻きつけてある。びくともしない。僕はだんだん絶望的な気持ちになる――。

 

そして。   
僕はスキューバダイビングをしている。   
透明度の高い海だ。   
どうやらそれは僕の朝の日課らしい。海から上がった僕は、ビーチで着替える。まっ白な砂浜に、さんさんと陽射しがふりそそいでいる。パラソルの陰でビーチベッドに横たわる人たち。   
ここは、どんな料理にも、赤唐辛子をたっぷり使ったペーストをつけて食べる熱帯の国だ。   
そこでの僕の仕事は、どうやら、私服を許された警官らしい。浜辺に建つ警察署に出勤して僕はそう悟った。入り口近くのカウンターの前で、手入れを食らったのだろう、しっかりと肉(しし)のついた娼婦たちが押し合いへし合いしている。そのかたわらを通り、金属製のキャビネットの狭い隙間を苦労してすり抜けて、僕は奥へと向かう。そこに、同僚のいるオフィスがあった。挨拶を交わす。   
調べなければいけない証拠があるのを思い出したが、いまはそれどころじゃない。まずはトイレだ。 尿意はどこへも行っていなかった。   
オフィスの一角に、ロッカーのようなものがある。それがトイレだった。   
ぺらぺらした金属製のドアを開けた僕は立ちすくむ。   
木製の便座のついた、洋式便器。そこには、一面に、べたべたと、黄色い大便のようなものがこびりついているのだ。こんなに汚い便器にはお目にかかったことがない。僕は叩きつけるようにドアを閉めた。   
このトイレじゃない。俺が必要しているのは、ほかのトイレだ。   
ラッキーなことに、おなじオフィスのなかにべつのトイレを見つける。   
仕切りで囲まれたなかに、和式の便器がある。わりとちゃんとして見えるトイレだ。   
このときまでに、僕は、どうやら自分が夢を見ているらしいことに気づいている。さっきのトイレがあまりに汚かったのは、そこでしてはいけないという、潜在意識からのメッセージなのだ。   
しかるに、このトイレはどうか。仕切りの下に隙間があってすぐ向こうがオフィスというのが気になるところだが、それを除けば問題はなさそうだ。なんといっても清潔だし。   
そう、これこそが僕が探し求めていたトイレにちがいない。ここでなら、思う存分に解放感を味わっても大丈夫なはずだ。   
深い確信に満たされつつ、ズボンを下ろした僕はなぜかどっかりと腰を落として和式便器にまたがり、ぱんぱんの膀胱を完膚なきまでに空っぽにしてやろうという決意とともに、放水を開始する。   
うん、そうだ。俺が求めていたのは、まさしくこの便所だ。   
そんな満足感をおぼえつつ、ふと下に目を落とした僕は、便器の底に女物の黒いパンプスがひと組、きっちりと押し込まれているのを見て、ふしぎに思った。

『ハズバンズ&ワイブズ』感想

ラッパ屋の新作『ハズバンズ&ワイブズ』を観る。   

今回のテーマは、東日本大震災。お芝居はまさに、3月11日のあの地震の数時間後からはじまる。舞台となるのは、青砥にあるマンションの一室だ。主人公は、この部屋に暮らす、どちらもグルメライターをしている、ひと組の夫婦。この舞台に、マンションの隣人たちや、主人公夫婦の昔の同僚などがやってきて、大震災を軸にいく組かの夫婦を中心とした人間模様が描かれる。 
 
等身大の登場人物で日常のおかしみを描いてきたラッパ屋が、今回のように現実の大事件を作中に反映させるのははじめての試みらしい。そこはもちろんラッパ屋なので、シリアスな社会派劇などにはならず、全編笑いに満ちたコメディに仕上がっているが、作者も役者たちも、はたしてどこまでを虚構化し、どこまでを喜劇にしていいものか、準備段階から相当悩んだそうだ。脚本が完成したのも本番ぎりぎりだったというあたりからも、苦闘のほどがうかがえる。逆に言えばそれだけ避けては通れない題材だったということなのだろう。   

震災が起こった瞬間、主人公夫婦はお互いべつべつの場所にいて、連絡がとれずにいる。その事実が妻の心のなかにしこりとしてずっと残り、夫との関係に齟齬をきたす。どちらも意地っ張りなために素直になれない夫婦を、福本伸一と三鴨絵里子が好演している。とくに今回、健康的なお色気と愛嬌と意外と悪女かも感を兼ね備えた三鴨絵里子のチャーミングっぷりがすさまじい。
   
ふたりが暮らす部屋は、彼らの心象風景そのままに(ということを本人たちがわざわざ説明してくれるのがおかしい)、震災後も本棚からあふれた本や散乱した衣類でとっ散らかったままだ(その半分は、震災ではなく、震災の前の夫婦喧嘩で妻が散らかしたのだが)。
   
その部屋に、マンションの隣人たちが入れ代わり立ち代わりあらわれるようになるきっかけも、震災だ。隣の部屋の住人(おかやまはじめ)の玄関ドアが開かなくなり、バルコニーの蹴破り戸をぶち破って、主人公夫婦の住戸づたいに外へと出入りするようになる。三鴨絵里子演じる妻が反対側の蹴破り戸を破ることで、そちらの側の隣人夫婦(俵木藤太と弘中麻紀)までもがこの部屋に出没するように。さらに、おなじフロアに住む若い夫婦や、不倫カップル、ゲイではないのになぜかふたりで暮らしている中年男性ふたり組、主人公夫婦のかつての同僚や出入りの八百屋など(演じるのは、客演の女優さんを除けばラッパ屋のいつもの面々)が入り乱れて、ドラマが展開するというしかけだ。
   
震災をきっかけに、それまでそれほどでもなかったご近所との付き合いが深まり、津波の映像にショックを受け、原発や放射能に関する報道に一喜一憂右往左往、疑心暗鬼する。それでも是非なく図太く日常を生きる彼らの姿に、僕らは震災後の自分自身を重ね合わせて見る。
   
それにしても、彼らの親しくなるスピードには目をみはるものがある。
   
震災の翌日、被災地の惨状を知った、俵木藤太演じる、上野のアメ横で雑貨店を営む店主は、自ら被災地まで支援物資を届け、そこで炊き出しを行うことを決意する。すると、それを知ったもうひとりの隣人と、主人公妻、その昔の仕事仲間までもが、この小さなキャラバンへの参加に名乗りをあげるのだ。
   
ただでさえ資金繰りが厳しい懐事情をかえりみない夫に、弘中麻紀ちゃん演じる妻は、「なんであなたが行かなきゃいけないの」と反対する。夫は、かつて原発の反対運動が行われていたとき、自分があまりに無関心であったことが、今回の原発事故につながっている気がして責任を感じているという心情を、「下町」の男の飾らない言葉で吐露する。妻が指摘する夫の「おっちょこちょい」さも、無関心や悪意からではなくまずなにより目の前の生活を守ろうとする妻の小市民的なリアリズムも、われわれにとってともに身近なものだ。舞台上の彼らを見るうちに、僕は、震災後の自分の心の動きを再体験しているような気持ちになった。 
 
舞台は、おなじ日本人として大きな喪失を経験した主人公たちが、希望というほど劇的ななにかをつかむことはできぬまま、自らの無力感をかかえたままに、愛する人がいることの素晴らしさをたしかめて終わる。大上段に正義を語ったり、手ばなしで未来を謳歌することもない、でもラッパ屋らしいすがすがしいエンディングだ。
   
あの震災によって、決定的に喪われてしまったもの、もう二度と還らないものがある。僕は被災地からはなれた場所にいて、自分の肉親や知人を喪ったわけではないが、日本人としてそう感じている。
   
ラッパ屋の舞台は、ごく平均的な(だが、愛すべき、という点で、よき)「日本人像」というものをずっと描きつづけているのではないかと思う。ラッパ屋を観ているときに感じる幸福感というのは、熊さん八っつぁんのいる落語の世界に身をひたしているときのそれに近い。つまり、そこに描かれているのは、人間関係としての一種のユートピアなのだろう。ファンタジーと言い換えてもいい(長い共演関係にある役者たちによる、気心の知れあった空気感によって、それはいっそう強固になる)。
今回、大震災と原発事故という現実の大事件によって、そのファンタジーそのものが、アイデンティティの危機にさらされたのだ(と同時に、そうしたファンタジーを心地よく共有できる社会的前提というべきものも、もしかしたら同様に危機にさらされているのかもしれない、と、迫りくる時代の跫音を背中に聞きながら感じずにはいられない)。
   
「ラッパ屋世界の住人たち」が、はたしてあの大震災をどうサヴァイヴしてゆくのか。その興味が今回の新作に、いままで僕が観てきたラッパ屋の舞台にはない新たな緊張感を加味して、スリリングな演劇体験になった。

ラッパ屋新作『ハズバンズ&ワイブズ』

弘中麻紀ちゃんが出演するラッパ屋の新しい舞台『ハズバンズ&ワイブズ』。   

111031

11/11(金)~11/20(日) 紀伊國屋ホールにて。
(詳しくは画像をクリックでリンク先を参照のこと)
   

このたびの震災がテーマ、と言われるとなんだか構えてしまうが、いつものラッパ屋のコメディであることに変わりはない、と聞けばがぜん期待は高まる。

今回は僕も観に行けそうです。

ドラマ『ランナウェイ』

石井康晴演出のドラマ『ランナウェイ』第一話を観た。面白かった。
   
予告編で、脱獄した4人の若者が街中で警官に追われている場面を見て、4人でいっしょに逃げつづけるという設定なら、それはちょっと無理がありすぎるんじゃないか、と思ったのだが、見てみると、市原隼人演じる主人公が脱獄する動機とからめて、かなり強引ながら4人で逃げつづける理由が設定されていた。強引だけど、嫌いじゃない。   

逃げる4人の若者のキャスティングもいい。市原隼人、塚本高史、上田竜也、菅田将暉。塚本高史は迫力が出てきてヤクザ役に違和感がない。上田竜也はジャニーズを意識させない振り切った演技に好感が持てる。菅田将暉はもうとにかくハングリーさと色気を感じさせる目力がすごい。市原隼人は囚人の髪型が似合いすぎる。   

びっくりしたのは、てっきり4人だけだと思っていた逃亡者がもうひとり増えることだ。ベタなうえにリアリティを犠牲にしているかもしれないが、僕みたいな単純な人間にとってはこの設定は熱い。   

そう、これは熱いドラマなのだ。市原隼人の演技も当然ながら熱い。熱すぎるくらいだ。彼が演じる主人公は、服役囚とはいえ本質的には過激なまでの正義漢だ。その行き過ぎた正義感に、やはりみなどこか狂気をはらんだ3人の男たちを巻き込んでゆく、というストーリーを最高にヒートアップさせるのが、5人目の逃亡者なのだった。   

主人公と同房の囚人役に竜雷太(この人の演技もいくつになっても熱いなあ)、4人のひとりの母親役に室井滋、4人を追う刑事に嶋田久作、主人公が逮捕された事件を調べる元刑事に渡哲也と、脇のキャスティングにも力が入っている。難を言えば、渡哲也演じる元刑事があきらかにいい人っぽく、土壇場で助けてくれそうな雰囲気がありありでサスペンスを減じているところか。映画の『逃亡者』みたいな絶望感がもっとほしい、と思うのは欲張りなのかしらん。嶋田久作には『テルマ&ルイーズ』の、テルマとルイーズを追う刑事(ハーヴェイ・カイテル)みたいに4人を理解する方向へと変化したりしない、最後の最後まで容赦なく追いつめる徹底した悪役ぶりを期待したい。   

シナリオにも演出にも荒っぽいところはあるが、まずハッタリの効いた設定にわくわくさせられるし、オリジナルで、人間賛歌を高らかに歌い上げる骨太のエンタテインメントをぶちかましてやるぜ、というような作り手の熱気が伝わってくるドラマだ。つづきが楽しみだ。

『アニメとプロパガンダ』セバスチャン・ロファ(法政大学出版局)

ほやほやの新刊。共訳者のひとりである古永真一よりご恵投いただく。   

副題は「第二次大戦期の映画と政治」。    

日本初の長編アニメは戦意高揚のために国策で作られたプロパガンダ映画だった。ミッキー・マウスもドナルド・ダックもグーフィーもポパイもバッグス・バニーもプロパガンダ映画に出演し、戦時節約を訴えたり戦時国債の購入を呼びかけたりヒトラーをおちょくったり海軍に入って魚雷で日本の船団を撃沈したりしていた。枢軸国側でも連合国側でも第二次大戦中には数多くのプロパガンダ・アニメが作られていたのだ。この本はさらに主な中立国までをも網羅して各国でいかにプロパガンダ・アニメが製作され「各国政府が自国の大義のためにどのように国民を巻きこもうとしたのか」を考察する、資料的価値の高い力作だ。    

本書ではプロパガンダ・アニメは以下のように定義される。   

プロパガンダ・アニメとは情報提供を目的としているように見せながら、人々を扇動するために作られた映画と言えるだろう。

プロパガンダ映画はもちろんアニメだけの専売特許ではない。けれど、「リアリズム」とはある意味対極の位置にあるアニメには意外にも強力なプロパガンダ効果があった。   

政治の指導者たちがイメージの力に気づいたのは四十年代の初めになってからである。敵国を非難するすぐれた風刺アニメが一つあれば、巧みな文章で書かれた数百枚ものビラよりも多くの打撃を与えることができる。アニメの説得力は戦争を通じて発見されたのである。 

アニメはわかりやすい。「表現したいものを明確に示す」こともできる。そうしたアニメの特質に気づいていたナチス・ドイツは大衆を扇動するだけでなく「軍事的な分野や戦術の実践でもアニメを活用した最初の集団」となった。アメリカでも、兵士の訓練用にアニメの教育映画が用いられた。たとえば『あの戦車を止めろ』という映画では対戦車兵器の取り扱い方を描いている、といった具合に。実写や図版を交えた講義より、訓練用のアニメ映画のほうが受講者の覚えが早く、記憶も長く保てるという研究結果もあったらしい(ポパイ・シリーズを作ったマックス・フライシャーは、第一次大戦中、訓練用アニメ映画の先駆者だったという)。   

興味深いのは、アニメ映画がしかしもっと直截的に戦局に影響を与えているかもしれないと思わせる、以下のようなエピソードだ。    

1938年、ドイツのアニメ作家たちは極秘の任務を遂行するためにベルリンに集められる。   

彼らは宣誓をさせられて、将来想定されている攻撃目標のための航空路をアニメーションで描くように要求された。このときに渡された資料は、かなりの高度から撮られた、粒子の粗い航空写真だけだった。この写真をもとにしてアニメ作家たちは、攻撃目標がはっきりとわかる、空爆のシミュレーションとなるアニメを制作しなければならなかった。アニメでは、対空砲部隊の位置もわかるように描かれており、爆撃機のパイロットたちはイギリスの都市に爆弾を投下するためにどのルートを選べばよいのかを正確に把握することができた。 

アメリカでディズニーが作った『空軍力の勝利』という作品はもっとすごい。

空軍力よりも海軍力に重きが置かれていた時代、「連合軍の勝利のために戦略的な空軍設置の重要性を提言することに全力を傾けていた」セヴェルスキー少佐という人物が書いた同名の原作をもとに作られた、アニメーションと実写を合わせた映画で、この企画はウォルト・ディズニー自身のものだった。映画の制作中、ウォルト・ディズニーは政府からの援助が減ることをおそれた海軍から企画を放棄するようさまざまな圧力を受けたらしいが、1943年に公開されたこの作品はアメリカではそれほどの成功をおさめなかった。が、イギリスではちがった。監督のひとりであるポッターによれば、   

この映画はアメリカにおけるよりもイギリスで、とりわけ将校の間で有名になり、まもなく非常に重要な役割を演ずることになります。チャーチルがケベック会議[一九四三年八月十四日]に到着すると、軍人たちは長距離爆撃機に興味を持たせようとルーズヴェルト大統領の説得にかかりましたが、大統領には彼らがいったい何の話をしているのかまったくわかりませんでした。チャーチルが言います。「ところで、もちろんあなたはすでに<空軍力の勝利>をご覧になったのでしょうな……」。それに対してルーズヴェルトが答えます。「いえ……。何です、それは?」空軍司令官のテッダーとチャーチルは、空軍部隊に<空軍力の勝利>の複製をケベックまで持って来させなさいとルーズヴェルトに強く勧めます。そして、それこそがアメリカ空軍における長距離爆撃機のはじまりだったのです。 

ということになる。   
著者は言う。「このジャンル」(プロパガンダ映画)では「アメリカ人が一番」なのだと。    
想像にかたくないが、アメリカのプロパガンダ・アニメでは日本人は人種差別の対象となった。
   

ナチズムを標的にしたプロパガンダ・アニメが敵のイデオロギー面だけを中傷することで満足しているのに対し、悪名高い「東條おじさんの犬たち」と戦っているGIたちを褒めたたえるアニメは、恥も外聞もなく相も変らぬ攻撃的な人種差別を見せつける。敵はきまって「まぬけ面」で「目尻が上がった猿」である。(中略)ドイツ人は乱暴で残酷だが知性はあり、時にはインテリであることすらある(後略)。 

またべつの箇所では、   

日本人はたいがい背が低く、出っ歯で、ぶ厚い眼鏡をかけた姿で描かれている。その姿はまるで昆虫である。彼らは人間でもなければ、ドイツ人のように超人でもない。日本人はほとんど人間以下の存在になってしまっている。敵を怪物じみた動物に描くことは、一般的にプロパガンダの基本的な表現である。かくして敵は非人間化され、憎しみはより強くなり、敵と戦い、敵を殺すことは容易になる。というのも、目の前にいるのは人間の同類ではなく、ただの獣だからである。 

とあって、こうした文章や『空軍力の勝利』についての記述を以下の引用箇所と結びつけて考えずにはいられない日本人としては、なんとも言えない気持ちにさせられる。   

東京では一九四五年三月九日の夜から十日までに一〇万人が亡くなった(一九四五年に日本中で空襲による死者は五〇万人にのぼった)。 

本書はアニメの専門家や研究者向けの本だろう。けれど、僕のような門外漢にとっても興味深い記述は他にもたくさんあった。   

ナチスはディズニーの『白雪姫』の国内上映をあきらめた。宣伝相のゲッベルスが「この映画の輸入コストが高くつく点に加え、そのずば抜けた技術的洗練がドイツにとって不名誉である」と判断したからだ。ゲッベルスは日記でこの作品についてこう書いている。「素晴らしい芸術作品である。大人の鑑賞に堪えうるように隅々まで配慮が行き届いており、人間と自然の真実の愛が描かれている。芸術的な感興の尽きない作品だ」。『白雪姫』が素晴らしい映画だったがゆえに上映を禁じたのだ。ヒトラーもディズニー映画が好きだった。   

大の映画好きだったゲッベルスが総統のためにディズニーのアニメを用意すると、ヒトラーはいつも「なぜ我々はこれと同じようなものを作れないのだ?」と責め立てた。 

しかしゲッベルスは表立っては『白雪姫』へのバッシング――暴力的でおぞましい作品だと印象づける――の指揮を執る。   

ナチスは芸術を「芸術自体が目的となるものではなく、プロパガンダに奉仕する手段」とみなした。したがって芸術を批評するいかなる職業も認めなかった。いっぽうアメリカでは『空軍力の勝利』も批評にさらされる。   

『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』のハワード・バーンズは(中略)「技術的な見地からいって、グラフィックの出来映えには文句のつけどころがない。ただし、この映画のイデオロギー色の強い内容についてはためらいを感じてしまう」と述べている。 

このような対比も面白い。が、弾圧という点ではドイツよりも連合国側であったソ連でのそれのほうがはるかに厳しかったという印象を本書からは受ける。   

また、本書はプロパガンダ・アニメについての本だが、検閲をすり抜けてナチスの政策に背く作品を作り上げた反骨の作家であるハンス・フィッシャーケーゼンや、戦中下の日本で作られた非プロパガンダアニメである『くもとちゅうりっぷ』などについても記されているところに著者の目線を感じる。   

ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』が『カサブランカ』と同様に愛国的な映画だったことや、ウォルト・ディズニーがロアルド・ダール原作の『グレムリンの知恵』という作品の映画化を企画したが断念した逸話、オーソン・ウェルズが自ら飛行士役を演じる実写とアニメを合成した『星の王子様』の映画を企画していたがやはり断念したということ、中国のプロパガンダ・アニメ『鉄扇公主』に手塚治虫が非常に感銘を受けたという話など、トリビアルなエピソードも楽しめた。邦訳版にのみ掲載されたという数多くの図版も理解の大きな助けになった。   

「訳者あとがき」で古永真一はこう書いている。   

本書で取りあげられている多くのアニメはYou Tubeなどのサイトで気軽に見ることができるが――便利な時代になったものだ――本書がそうした「宝の山」への案内役になれば幸いである。 

プロパガンダ・アニメはその性質上、現在では「政治的な正しさ」の検閲を受けて編集され、元の姿を保っていないものも多いらしい。でも僕も、折を見てはそうした「宝の山」を訪ねてみたいと思った。

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追記(2003年12月22日)

本書の内容にいくつか誤りが見つかったそうで、訂正内容が出版社のサイトで公開されています。

法政大学出版局『アニメとプロパガンダ』

村上春樹のスピーチ

今回の震災について、村上春樹が9日に行われたスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で語った。以下のリンク先でその全文が読める。この春海外へ転勤した友人がメールで教えてくれて知った。

 

【村上春樹】カタルーニャ国際賞スピーチ全文(47News)

 

僕は村上春樹のいい読者ではない。かつてそうだったことも。でもこれは読んでよかった。内容自体にかくべつの驚きや発見はない。これから書かれるべき小説について語った言葉はびっくりするほど素朴だ。けれど力強さといつわりのなさを印象づけられたし、いい読者でもないのに信者めいた感想を吐露するのはたぶんあなたが想像する100倍くらいは気恥ずかしいのだが、気恥ずかしさついでに言ってしまうと、癒されたし勇気づけられもした。つまり結局、僕も、村上春樹好きな人たちがおそらくそうであるように、書かれた文章と、なぜか(とあえて書いておくが)国内では厳重にコントロールされたメディアへの露出だけを判断材料に、同時代を生きている、生身の彼の人間性に対して、なにか揺るぎのない強さを持った信頼を寄せるに足るもの、つまりはカリスマ性を積極的に信じたい気持ちになっているのだろう。大勢の人にそんなことを期待される作家になるなんて想像するだけでもおそろしいことだが、おそらく村上春樹にはそれを引き受けるだけの常人ばなれしたとほうもない精神的/肉体的なタフネスが備わっている――たゆまぬ努力とある種おそろしいほどのひたむきさによって彼はそれを長い年月をかけて鍛え上げてきたにちがいないと僕は妄想している。村上春樹はきっと、なるべくしていまのような彼になったのだ。『1Q84』が出る前の記事で読んだのだと思うが、彼の印税収入はある時点で海外からのそれが国内のそれを上回るようになっていたらしい。ご存知のようにベストセラーはかなりの程度作り得るものだが、熱心な編集者に伴われた書店回りや出版社によるお金をかけた広告や『王様のブランチ』への出演や「本屋大賞」の受賞だけでは、村上春樹のように世界的に読まれつづけている作家を作ることはできない。そして、村上春樹が日本だけでなく世界的にも商業的に成功していることは、すくなくとも僕に関しては彼の発言への信頼性を増す理由になっている。

 
   

我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。

 

新しい、という言葉は小説の世界ではカッコつきでないと扱いが難しい言葉なのだと思うし、ここで村上春樹が提唱しているようなことを、はたして作家としての自分が目標としたいのかどうかもわからない。ただ、ひとついえるのは、自分の人生のなかでもっとも絶望的であってもおかしくない時期だというのに、この文章を読んでいるとなんだか楽しくなってくるということだ。そういえば、かつて処女作中で、(完璧な希望ではなく)完璧な文章が存在しないことのたとえとして、完璧な絶望は存在しないと書いたのは彼だった。

『さよなら、ベイビー』はまだ在庫があります

Amazonをはじめとするネット書店で軒並み在庫切れになっている『さよなら、ベイビー』ですが、編集者に確認したところ、今週末から来週にかけてネット書店にも入荷される見込みとのことです。お待たせして申し訳ありません。

俺たちは天使じゃない

先日、新潮社の担当編集者から電話があった。『さよなら、ベイビー』がまた「動いて」いるので、在庫をかき集めて手配しているところだという。それから3日たったけど、Amazonでも紀伊國屋でも楽天でもまだ品切れ状態がつづいている。重版かけたほうがいいんじゃないかなあ。 

“長期にわたる単なる品切れと絶版は区別がつかない。”   

北野勇作さんのツイートより。   
“ま、クラークはそんな体験してないか。”とつづく。   
このツイートのチャーミングさについて野暮な注釈は控えるが、けだし名言、ていうかそのとおりすぎて困ってしまう。   

おそらく小説家の90パーセントは金銭的な意味ではどちらかといえば報われていないはずだが、それはスタージョンの法則のせいではない……たぶん。『キック・アス』のモノローグじゃないけれど、人が職業作家になるためには(スーパーヒーローになるのとおなじように)“楽天性と純真さの完璧な配合”が不可欠なのだ。   
あるいは――もしかしたら、小説家は職業じゃなくて生き方なのかもしれない。
税務署がそう判断するかどうかは、またべつの話だ。

『愛と希望と勇気』

明日17日発売の『小説すばる』6月号に短編が掲載されます。   
タイトルは『愛と希望と勇気』。   
最初は犯罪者が主人公のミステリーを書いたのだがうまく書けず、『小説すばる』らしく若者が主人公の青春ものにしようと考え直した。『桐島、部活やめるってよ』みたいな作品を目指したのに、どうしたわけか、ワーキングプアなロスジェネの主人公がブラック会社にこき使われる話になってしまった。   

ゴーサインを出してくれた編集者に感謝したい。

『冒険小説の時代』の頃と、『さよなら、ベイビー』

たしか『ブック・ガイドブック』だったと思う。中学二年生くらいだったろうか、図書館でたまたま手にとった本だ。さまざまなジャンルの本を、ジャンルごとの選者が推薦するガイド本。僕が内藤陳という人と、彼が薦めていた冒険小説というジャンルと出会ったのはそのときだったと記憶している。   
それまでにもSFやミステリーはぼつぼつ読んでいたが、大人向けのジャンルとして冒険小説というものを意識したのははじめてだった。なにより冒険小説を語る内藤陳という人の熱い語り口にひきこまれ、興味を持った。
   
内藤陳のお薦めで最初に読んだのは川又千秋の『対馬沖ソ連艦に突入せよ』だったと思う。それまで読んだことのないタイプの小説だった。おなじ主人公が活躍する『林彪の罠』も読んだ。いまとなっては内容を思い出せないが面白かったのだと思う。その証拠に川又千秋の冒険小説はほかにも『幻獣の罠』『南十字星パイレーツ』『赤道の魔界』などを読んでいるからだ。そうか、俺の冒険小説の原体験って、川又さんだったんだ。   
この冒険小説体験の最初期にはほかに鏡明の『不死を狩る者』や高千穂遙さんの『狼たちの曠野』(大友克洋が表紙のイラストを描いていた。カッコよかった。そういえば大友克洋は都筑道夫の『銀河盗賊ビリイ・アレグロ』の表紙も描いていた。あれもカッコよかったなあ)などを読んだのを覚えている。SFよりの日本作家から入っていったのだ。   

ちょうどその直後だったか、内藤陳が『読まずに死ねるか!』という冒険小説のガイドブックを出しているのを知った。月刊プレイボーイに連載していたコラムをまとめたものだ。おっ、あの人の本じゃん、と思って手にとってみた。面白かった。なんせ語り口が熱いのだ。本業がボードビリアンだからかもしれないが、シャレも利いているし、サービス精神も旺盛だ。タイトルではないが、そこで紹介されている小説を読まずにはいられない気持ちにさせられてくる。   

『読まずに死ねるか』をガイドにして冒険小説を読むようになった。日本人だけでなく海外の作家も。アリステア・マクリーン、ジャック・ヒギンズ、デズモンド・バグリィ、ギャビン・ライアル。冒険小説のなんたるかを彼らに学んだ。ロバート・ラドラムもジョン・ル・カレもブライアン・フリーマントルもフレデリック・フォーサイスもトレヴェニアンも素晴らしく面白かった。ジョゼ・ジョバンニにシビれ、A・J・クィネルに燃えた。ロバート・B・パーカーや、それ以上にディック・フランシスにも夢中になった(どちらも菊池光の訳文の文体の魔力もあったと思う)。そしてトニー・ケンリック。当時から小説家になることを意識していた僕が、俺もこういうことがやりたいんだと思える作家に出会えたのも内藤陳のおかげだ。(小林信彦や椎名誠氏や開高健を読むようになったのも内藤陳の影響だが、それはまたべつの話)   

中学から高校にかけて読んだ本のほとんどは冒険小説だったと思う。   
内藤陳が、「おススメ本」のガイドブックの第二弾である『読まずば二度死ね!』を出版したのは僕が高校生のときで、神田の三省堂で催されたサイン会に足を運んだ。思えば知り合いの編集者に頼まれてのサクラなどではなく自分の意志でだれかのサイン会に行ったのはあとにも先にもこれきりだ。(この「読ま死ね」のシリーズは、南伸坊のイラストもじつによかった)
   
ちょうどこの頃、日本の冒険小説もどんどん面白くなっていった。船戸与一(『非合法員』『山猫の夏』『猛き箱舟』)、志水辰夫(『飢えて狼』『裂けて海峡』『散る花もあり』)、北方謙三(『眠りなき街』『檻』)、逢坂剛(『カディスの赤い星』『百舌の叫ぶ夜』)……こうしてタイトルをならべているだけであの頃のわくわくした気分がよみがえってくる。
   
北上次郎を知ったのも、内藤陳をつうじてだったと思う。『冒険小説の時代』という本を書いている人だ。僕が通っていた図書館にもその本はあった。たしかシルバーっぽいグレーの装幀のハードカバーで、書評を集めた本としてはぶ厚く感じたのをおぼえている。でも読んでみるとひきこまれた。『冒険小説の時代』というタイトルだが、そうでない小説もけっこうとりあげていたように思う。じつを言うと、ここでとりあげられた作品についてはあまり覚えていない。西村京太郎や田中光二や片岡義男の作品があったっけな、というていどの記憶しかない。でも、強烈なインパクトを受けた。   
なぜか。(ってこれ北上節ですね)   
それはこの本のなかで北上次郎が提唱していた「活劇小説」という概念が僕の琴線にふれるものだったからだ。   
活劇小説。乱暴にまとめてしまうとそれは「克己」を軸に据えた冒険小説のことだ。   

冒険小説には敵が必要だ。けれど主人公にとって本当の敵は自分自身の弱さであり恐怖心であるのだ。主人公が自らの弱さと対峙し、乗り越える。そうした過程がある冒険小説を、そうでないような小説(たとえばジェームズ・ボンドもの)と画然と区別するべし。北上次郎はこの本のなかでくり返しそう言っていたと記憶する。   
さらにこのこだわりを前面に押し出したのがこのつぎに書かれた『気分は活劇』だったと思う。もちろんこれも読んだ。この「活劇小説」(というネーミングはその示すところを鑑みると誤解を招きやすいものだったかもしれない)という枠組みで考えると、H・R・ハガードのアラン・クォーターメインものの本当の面白さが見えてくるといった記述には興奮した。   

もうひとつ。北上次郎のこだわりによって僕が意識するようになったことがある。それは「エージェント・ヒーロー」とそうでないヒーローとの区別だ。エージェント・ヒーローというのは(たとえばジェームズ・ボンドのように)組織に所属するヒーローのことだ。(僕自身はそうでないヒーローによりひかれるのだと気づかされたが、この「そうでないほうのヒーロー」の呼び名は忘れてしまった。一匹狼?)   
冒険小説の核には克己という軸がなければいけないこと。エージェント・ヒーローと一匹狼はちがう。僕自身の受容力の限界もあるのかもしれないが、じつにシンプルなことだ。そんなのは教わるまでもなくわかりきったことだという人もいるだろう。しかし、当時の僕が北上次郎の著作によって将来書くであろう物語の指針を得、おおいに発奮させられたのはたしかなのだ。   

大学へ入るとロラン・バルトや蓮實重彦やナボコフなどを読むようになり、登場人物に感情移入するのとはまた異なるレベルの、作者との知恵比べのような小説の楽しみ方があるのだということも知るようになる(いうまでもなくSFやミステリーなどにもそうした要素はある)。また、ダメな人間が克己などせずダメな人間のまま生きていることを描くだけでも面白い小説があることも知り、むしろそういったものを好んで読むようになった(ダメ男を自覚していたから、そのほうが安心できたのだろう)。冒険小説からも遠ざかってしまい、自分が本当に何が書きたいのかわからなくなった時期もある。   

それからずいぶん時間がたって、『さよなら、ベイビー』という小説を書いた。   
『さよなら、ベイビー』は冒険小説ではない。でも、ダメ男の主人公は自分の弱さと対峙して、さいごにはほんのすこしだけ前に踏み出す。それは人類にとっては小さな一歩だが彼にとっては大きな一歩だ。あるいはこの小説そのものが僕にとってそうした意味合いを持つのかもしれない。   
担当編集者が北上氏に本を送ってくれたと聞いたとき、平然をよそおっていたが内心では驚きつつドキドキしていた。さいわい北上氏は気に入ってくれたようで、ラジオや雑誌などのメディアで『さよなら、ベイビー』を何度もとりあげてくれた。
   
いつかはこの人にほめられるような小説を書きたいと思いながら『冒険小説の時代』を読んでいた高校生の頃の僕に教えてやったら、きっとよろこぶだろう。

(※今回のエントリは記憶だけで書いているので、まちがいがあるかもしれませんがご容赦ください)   

『さよなら、ベイビー』は電子書籍でも読めます

昨日Amazonを見たら『さよなら、ベイビー』が本のベストセラー・ランキングで38位になっていて驚いた。軽い在庫切れ状態で、まだ絶版にもなっていないのにマーケットプレイスにはプレミアムがついた価格のものがいくつか並んでいる(いくらなんでも無茶ですぜ、出品者さん)。調べたら、おとといラジオで書評家の北上次郎氏が紹介してくださった効果みたいだ。発刊から7ヵ月。つぎからつぎへと新しい本が出ている状況のなかで大変にありがたいことだ。

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(『SIGHT』VOL.46より)

北上氏は昨年末に『SIGHT』誌で特集された「ブック・オブ・ザ・イヤー2010」でも『さよなら、ベイビー』をベスト5に入れてくれています。

まだまだ新鮮な『さよなら、ベイビー』は電子書籍でも読めます。 

『さよなら、ベイビー』(新潮社の電子書籍ライブラリー Shincho LIVE!)


電子書籍については作家さんのなかでもいろいろな意見があるのだが、僕のように知名度の高くない小説家にとって、現状ではすこしでも流通のチャンネルが多いほうがいいのではないかと考えて電子書籍化を承諾した。でも、Googleでの検索結果を見るかぎりまだまだ紙の本が優位なようだと考えて安心している自分もいたりします。

漫画版『天地明察』

6月号の『アフタヌーン』で槇えびしさんの『天地明察』がはじまった。 

これがめっぽう面白い。 

原作はいわずと知れた冲方丁の同名の小説。ベストセラーになったし賞もとったのでなんとなく内容は知っているが未読だ。時代小説をあまり読まないということもあるが、ベストセラーになったし賞もとったので嫉妬もあるかもしれない。いやあるだろう。 

(冲方丁って自分と変わらないくらいの年齢だと思い込んでいたが、Wikipedia見たら俺より8つも若い。あの八面六臂の活躍ぶりからもっと年上だと思ってた) 

しかし、槇さんの漫画を読んだら原作も読んでみたくなった。 

それほど面白い。 

主人公の渋川春海がなんせいい。 

武士なのに腰に大小もうまく差せない不調法者で、「碁打ち衆」の名門安井家に生まれ、安井算哲の名を受け継ぐ宿命にありながら、三度の飯より算術が大好き。 

この純粋で清潔感があってたぶん平和主義者で母性本能をくすぐるキャラクターが槇さんの筆によってばっちり生命を吹き込まれている。 

未読だから原作と比較はできない。でも槇さんがこの主人公を完全に自分のものにしているのはよくわかる。僕は原作者として槇さんと仕事をさせてもらった経験があるので、槇さんが原作つきの作品を手がける取り組み方のようなものについては一般の読者よりもよく知っているはずだ。 

槇さんは非常に作家性の強いクリエーターで、とうぜんこだわりは多いが(たとえばトーンは必要最小限しか使わない、等々)、同時に柔軟性が高いというとても貴重な人だ。チームとして仕事をさせてもらうには理想的な人だと思う。 

槇さんは僕の原作の不備な点については遺憾なく駄目だしをしてくれたが、その代わりにそれを補うアイディアを出してくれた。ほとんど物語を再構築してくれた部分もある(もちろんそれでよくなった(汗))。原作をただ右から左に流して絵にするだけの人ではない。いちどそのなかに深く沈潜し、自分のものにしたうえでペンを(タブレットを?)走らせるという過程をとる。 

もちろんその過程では自分の強い作家性とのあいだで葛藤があるはずだ。今回の作品でもあるだろう。でも、この『天地明察』、第一回についてはたっぷりしたページ数もあろうが、のびのびして素晴らしく風通しがよい。槇さんの恬淡としたお人柄と主人公のすがすがしさがシンクロしているように僕には感じられる。結果、すこぶる感じのいい作品に仕上がっているのだ。 

もちろん他のキャラクターも魅力的(道策、いいね)だし、算術、という漫画的には地味な素材ながら盛り上がりも充分。去年のはじめにお会いしたとき、『アフタヌーン』で連載を準備しているという話は聞いていたが、それがこれだったのかな。この原作(未読だが)に槇さんをぶつけるとは、編集者もセンスがいいなあ。 

なんにせよ、楽しみがひとつ増えた。

最後に宣伝を。『天地明察』で槇さんを知った皆さん、槇さんのほかの作品といっしょにぜひ『DOLLSTAR 言霊使い異本』も読んでみてください。槇さんの魅力のまたちがった一面が楽しめるはず。

東北へ行ってきた

思い立って桜を見に東北へ行ってきた。 

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弘前城。さくらまつりの期間中。 

満開を1日過ぎたくらいか。

はじめて来たけれど桜の量が圧倒的だ。花の密度も濃い。惜しげもなく咲いてくれている。 

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あいにく天気は不安定だったが素晴らしかった。 

なるほど名所だ。 

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入場料を払って入る本丸でもシートを敷いて花見ができる。 

くらべても仕方ないが、ロープのなかにぎゅうぎゅうに詰め込まれ、歩きながら眺めるしかなくなってしまった千鳥ヶ淵とは大ちがいだ(昔は露天も出たりしていたものだが)。地元の人がうらやましくなる。ちなみに弘前の花見の定番はシャコとカニだそうだ。 

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ずいぶんな人出だなと思っていたけれど、例年とくらべるとかなり空いていたそうだ。たしかにこれだけの名所なのだからもっと混んでいてもふしぎじゃない。 

純然たる観光だったが、震災の影響もいくつか目にした。 

東北道は福島以北では亀裂や、おそらくは破損した部分を補修した箇所がたくさんあって車が激しく揺れた。瓦屋根が落ちたのかビニールシートで仮に修復してある家も見えた。東北道の上下で災害派遣の幕をつけた自衛隊の車両を見かけた。警察の護送車が何台も連なり、赤色灯を回転させて走っているのも上下で見た。あれも災害派遣で応援の警官を運んでいたのだろう。復路で前後して走っていたのは愛知県警の車両だった。任務を終えて帰途についていたのだろう。サービスエリアで見た警察官たちの顔には憔悴と安堵の色が浮かんでいるように見えた。

希望について

震災について触れなければならない。あれから一ヵ月以上が経った。僕は東京で地震に遭った。はじめて経験する震度だった。長く揺れた。大きいけれど、この大きさが最大なら大丈夫だなと思ったのを覚えている。じっさい、怪我をすることもなかった。電車が止まり、電話が通じにくくなった。テレビで見ると東北は大変なことになっているようだが、こちらはすぐ落ち着くだろう。そう思った。事情があってニュースはあまりちゃんと観ていなかった。東北にいる何人かの親戚や知人の「無事」(懐かしい言葉だ)を確認して安心していた。これまで日本で起きた大きな地震のように、しばらくすれば日常が戻ってくるだろうと思っていた。僕だけの問題かもしれない。災害に関しては距離と想像力の強度は反比例しがちだ。 

もちろんそうはならなかった。交通機関の麻痺や計画停電(僕の住んでいる地区では結局現在まで実施されていないが)、供給の不安定や買占めによる品不足、くり返される余震、なによりいつまで経っても収束しないどころか事態がどんどんわるくなっているように見える原発の状況などから来る不自由や不安や危機感。今回の地震については東京にいる人間も――東北の人たちとはくらべるべくもないが――「痛み」を感じざるを得なかった。たぶん、そうしたことがなければ(すくなくとも僕に関しては)被災地の状況はもっと「他人事」であり得たと思う。 

(これは災害それ自体よりもある意味おそろしいことかもしれない。広瀬隆の『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』という本がベストセラーになったのはたしか僕が大学に入ったばかりの頃で、友人に薦められて読んだ記憶がある。内容についてはほとんど思い出せないが、もちろん原発を否定する論調が貫かれていたはずだ。書かれていた情報の真実性について考える前に、僕はそこに見出した「イデオロギー的なもの」につよく反応してしまったのだと思う。当時の僕は「イデオロギー的なもの」をまるでアナフィラキシー・ショックの原因となるアレルゲンのように身の周りから過剰なまでに遠ざけようとしていた。その本を薦めてくれた友人に読後の感想を訊かれた。彼が知りたがったのは、この本を読んだ僕が、原発というものに賛成の立場をとるか反対の立場をとるかということだった。僕には答えられなかった。対立する二項のうちのどちらかひとつを択ぶ。それがその頃の僕にはとんでもない不可能事に思えたのだ(「イデオロギー的なもの」を忌避していた理由はそれだろう)。でも、いまにして思えば僕は答えを出していたのだ。こういうことだ。そうでないようにふるまったからといって当事者であることから逃がれられるわけではない。そして(思い切って敷衍するが)、人間というものは、じっさいに痛みを感じるまでは、そこに問題があることに気づかぬふりができる生き物なのだ) 

いま巷には「前向き」な言説があふれている。前向きになるのが困難な状況であればあるほど、そのように考えようとすること、行動しようとすることの価値も増すのかもしれない。僕自身は、頑張ろう、とか、ひとつになろう、といったスローガンには違和感をおぼえているが、悲観的な言辞よりも「ポジティヴなメッセージ」を広めることをよしとする風潮に水を差すつもりはなく、いまの状況をすこしでもよくするために自分もできることをしたいと考えているし、人間というものの底力を信じたいとも思っている。それに、映画『ショーシャンクの空に』でティム・ロビンスが演じる主人公の台詞にあったように、希望は――それ自体として――いいものだ。ご存知のように『ショーシャンクの空に』は、語りのレベルではなによりも希望についての映画だ。この映画のなかで、希望はだれの心のなかにも存在して、だれにも奪えないものとして言及される。主人公の言動は結果として他の登場人物にも希望に関する信念の体系を変えるという影響をもたらすが、べつに彼自身は伝道するためのものとして希望をとらえていたわけではない。それは最初から彼の内に、だれにも奪えないものとして存在し、自らのために彼はそれを信じることを選んだのだ。希望はまずそこにあるというだけでだれよりも主人公自身を救う。彼にとってそれは与えたり与えられたりするものではない(なかったと思う)。ここで問題にしたいのは、主人公にとって、希望を抱きつづけることは現実から目をそむけることではないということだ。彼は希望を信じる。だが奇蹟が訪れるのを待ってはいない。ではどうしているのか。おそろしく絶望的な状況のなかで、自分にできることをたゆまずにつづけているのだ。 

希望はいいものだ。でも希望それ自体がわれわれを救ってくれるわけではない。希望を抱くことがいちばん遠いのは、現実から逃避することだ。われわれが自らを助けるために必要なのはしたたかな現状認識だ。そのために不可欠なのはいうまでもなく正確な情報だ。希望的観測など役に立たない。それよりも想定される最悪の見通しこそ必要なのではないか。僕には、とくに原発に関して、説明責任を持つ人たちがそれについて語っているようには思えないのだ。いまが有事というのであれば、無能であることも裁かれてしかるべきなのかもしれない。だがそれよりも大きな罪は情報を隠蔽することだと個人的には考えている。これが長い長い闘いになることを、だれよりも被災地の人たちがいちばんよく知っている。口当たりのいい、その場しのぎのことばはもういらない。僕たちはいま、いやおうもなく歴史を生きてしまっているのだ。 

責任ある立場にいる人たちが真実を語る勇気。それこそが真の希望の礎となるものだと信じている。

ラッパ屋『凄い金魚』

弘中麻紀ちゃんが出るのでお知らせ。

 

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(写真をクリックでラッパ屋の公式HPへ)

 

3/10(木)~21(月)座・高円寺1にて

 

土曜日と木曜日のお昼の公演は託児サービスもあるとのこと。

 

いまどきそういうの大事だよね。

 

15年前の作品の再演で、麻紀ちゃんはかわいい妹からひどいお姉さんに昇格(?)したそうです。

 

行けるかな。行きたいなあ。

古永真一トークイベント

遅れ気味の仕事があるのだがちょっとだけ告知を。


・国書刊行会+小学館集英社ブロダクション+飛鳥新社三社合同のBD(バンド・デシネ)トークイベント

日時:2月19日(土)15:00~ 

場所:東京堂書店(神保町) 

古永真一と原正人さん。ゲストは豊崎由美氏と大森望さん。


古永真一は最近国書刊行会からパスカル・ラバテの『イビクス――ネヴローゾフの数奇な運命』というBD作品を訳出している。僕もご恵贈にあずかり拝読した。さいしょの感想は「日本じゃまず出てこない作品だぜ!」だった。やはりアメコミやBDを読むとつい日本のマンガ(業界)と比べてしまう。 

ところでこのニュースは本人から聞いたのではなく大森望さんのツイッター(ツイート?)経由で知った(大森さん、Nさんから『逆光』いただきました。ありがとうございます)。ついこないだ会ったばかりなのに、古永はこれについては教えてくれなかった。水臭い、というより、含羞のなせるわざだったのかもしれない。そういう男なのだ(俺が酔って覚えてないだけ?)。

新刊『さよなら、ベイビー』

新刊が出ました。

 

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『さよなら、ベイビー』(新潮社)。

 

さいしょの構想は、10年近くひきこもっていた青年が二人暮らしの父親に先立たれて世間にほうり出され、「地獄めぐり」(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン・コールフィールドのそれをうんとスラップスティックにしたもの――たとえば主人公が「徴兵」されてしまう――をイメージしていた)を経て少しだけ大人になる、というものだった。しかし、なかなか形にできずにいるうちに、似たような設定のマンガの連載がはじまってしまった。『GANTZ』の奥浩哉さんの『め~てるの気持ち』だ。

 

15年間ひきこもっていた30歳の青年が二人暮らしの父親に急死される、というお話。ただし、父親は亡くなる前に息子よりも若く美人で気立てがよくおまけに巨乳(奥浩哉さんですから)の女性と結婚していたため、青年はその「母親」と二人暮らしをするようになって――という、僕には発想できなかった「おいしい」つかみもある。

 

そのままではフックに欠けるな、といったんはお蔵入りにしたが、ひきこもりの青年が唯一の庇護者である父と死別する、というストーリーは頭のどこかにずっとひっかかっていた。ひとりぼっちになったその青年が誰の子とも知れぬ赤ちゃんを育てるはめになる、というアイディアを得て、企画を復活。それから完成まで2年もかかってしまった。去年の5月に第一稿を書いてから今年の夏に入稿するまでに、数えてみたら7回も改稿を重ねていた。   

はじめて「ミステリー」と銘打った小説を出すことへの気負いや、出産をめぐる状況について自分なりにしっかり描きたいという思いが先走って力みすぎた部分もあったし、ストーリーの整合性に気をとられて人物描写が薄くなっていた部分もあった。妥協せず駄目出しをし、忍耐強く助言を与えてくれた担当編集者O庭氏には感謝しかない(校正スタッフの強力なバックアップにも)。

 

見本を手にしたときには、はじめて本を出したようなよろこびを感じた。

 

ポップでどこかなつかしく大変に味のあるイカしたカバーイラストを描いてくださったのは泰間敬視さんです。装幀は新潮社装幀室。

古永真一の新刊『BD 第九の芸術』

古永真一の新刊が出ています。

 

翻訳を除けば『ジョルジュ・バタイユ 供犠のヴィジョン』(早稲田大学出版部)に続く二冊目の単著。めでたい。

 

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『BD(ベー・デー) 第九の芸術』(未知谷)。

 
   

スタンダールやバルザックのようなフランスの小説は日本でも愛読されているが、フランスのマンガは日本ではあまり知られていない。BDの多様性を考えるとつくづく不思議な現象である。日本ではフランスのマンガに対しては「なんとなく抱いているイメージ」で止まってしまっているような印象を受ける。その一方で日本の「マンガ」は独自の発展を遂げたが、日本の「マンガ」のイメージでフランスのマンガを捉えようとすると取り逃がす部分が出てくる。

   

そのため本書は、このような外国のマンガに対する日本の過渡的な状況を考慮しながら「マンガ」とBDには共通点もあれば差異もあるという素朴な事実に基づき、売れ筋のマンガよりも独創的な作品を優先し、作品の背景や他のジャンルとの関連を論じるようにした。「九番目の芸術」という問題設定や私自身の好みもあって、どちらかというと文学的なBDが中心になっている。

 

と「終わりに」に書いてあるように、芸術としてのBD(フランスでは、ヘーゲルの美学的価値観の延長線上でBDは「第九の芸術」と呼ばれている。制度化されることへのアレルギーよりもジャンルの価値を高め、社会的認知を得ることへの欲求が上回り、関係者たち自身がそう呼ばれるよう努力してきた結果なのだという)をテーマに、「BDが誕生し、娯楽として愛されながら革新を遂げ芸術として認知される過程を、時系列に沿った教科書的な解説ではなく、他ジャンルも視野に入れながら自由闊達に」述べたのがこの本だ。

 

そのとおり、ヨーロッパでマンガの創始者としてたたえられているテプフェールの作品(1830年に描かれたものもたしかにマンガとして読める)から現代にいたる概観を、代表的な作家や作品を掘り下げるかたちで紹介しつつ(「第二次世界大戦中、ムッソリーニ政権下のイタリアやヴィシー政権下のフランスでは、吹き出しはアメリカ文化の象徴として使用が自粛されていた」とか、ギュスターヴ・ドレもマンガを描いていたとか、面白い)、『ピエ・ニックレ』に代表されるアナーキズム(バタイユもこの作品にシンパシーを感じていた)から、アヴァンギャルド(「バズーカ」という集団はエルヴィス・コステロの「Armed forces」のジャケットのデザインに協力している)、シュルレアリスム(メビウスはホドロフスキーの影響を受けていた)、文学とBDの関係(実験的な言語遊戯を図像遊戯に、また、ポストモダン文学のとくにメタフィクショナルな側面との親和性)、自伝的BD(とくにポストモダン的な作品の面白さ)、「異端芸術のポエジー」をBDで表現する作品を多く出版する(だが小さな出版社)フレモクといったトピックについて、まさに自由闊達に語った風通しのよい本だ。

 

BDというものの間口と奥行きをめいっぱいに広くとりながらも、古永自身の好みのままに柱となる話題を選んでいるからだろう、まるでテプフェールのマンガそのもののような軽妙な語り口で語られる。当たり前だが翻訳書よりも古永真一の人柄がダイレクトに感じられて僕にはそれも楽しかった。

 

いちおう日本のマンガ産業のなかで仕事をさせてもらっている身としては、

 
   

一方、BD作家は、発表しようにもマンガ雑誌が今では少ないので、雑誌連載中の読者の反応を気にせずに比較的好きなように描くことができる。その代わり、日本の一部の人気漫画家のように豪邸に住むことはできない。「アステリックス」のような超人気シリーズの作者でなければ不可能だ。BD作家はだいたい一年に一冊、あるいは数年に一冊のペースで作品を発表し、別の仕事で生計をたてていることもある。スクリーントーンを使わずに一人で描くことが多く、作家によってはカラリストに彩色を任せずに直接彩色して図版を仕上げる。

 

とか、

 
   

後述するがフランスにはBDの専門学校があり、ニコラ・ド・クレシーのような卒業生が活躍している。その一方でメビウス(ジャン・ジロー)のように、プロの漫画家のアシスタントから研鑽を積んだ例もある。また、現代アートの芸術家がBDを描いていることもある。テレビや映画に比べたらお金になる仕事ではないせいか、それとも自らの適性と嗜好を見極めたのか、BDを描いていたパトリス・ルコントは映画産業に進んで成功した。

 

といった話はじつに興味深い(ていうか、パトリス・ルコントってBD描いてたのか)。

 

やっぱり、古永が言うとおり「日本人がBDについて考えるとき、日本の「マンガ」と比較するのは避けがたい」のである。

 

この点についての古永の問題意識は、

 
   

フランスにもバルのように日本のマンガの躍動的なコマ割りを取りいれようとする作家はいるし、ジェニーのように日本の「マンガ」スタイルで描くBD作家もいる。逆にBD的な作風の日本の漫画家(大友克洋、黒田硫黄……)もいる。ただこうした日仏の比較というのは、大雑把な話になりやすい。BDや「マンガ」の多様性を抑圧してわかりやすい図式に整理することでしかなかったりする。(中略)不毛な二項対立を回避し、「絵画的静けさ=退屈」「映画的躍動=おもしろい」という感覚的な快を無条件で優先する怠惰な図式を揺さぶらなければならない。

 

という部分に端的に表れている。

 

BDを好きな人はもちろんだが、マンガについてより深く考えたみたいという人にも楽しめる本になっていると感じた。

たまには仕事の話を

・台湾版につづいて1月の末に『小説ドラゴン桜』の韓国版の翻訳が出版された。抄訳という話は聞いていないから文庫で全5巻分の内容が厚めのソフトカバー2分冊にまとまっているのは不思議な感じで、最初はさらに3冊出るものだとばかり思い込んでいた。韓国の出版マーケットの規模は日本より小さいそうだが、翻訳版を担当する方が教えてくださったところによれば、まずまずの売れ行きとのことでひと安心。日本のニュースでも報じられるくらいに韓国の「受験戦争」というのは熾烈なものらしいが、小説がどんなふうに受容されるのか気になります。 

もっともこれはノベライズなので当然ながら原作である『ドラゴン桜』のふんどしで相撲を取らせてもらっているようなものだ。『ドラゴン桜』という漫画のユニークなところはそこから派生したものがたんなるメディアミックスやキャラクター商品にとどまらず、ビジネス書や受験参考書にまで及んでいるところだろう。完結してから3年になろうというのに『エンゼルバンク』として続編が連載されているのはもちろんだが、つい先日も朝日新聞で「ドラゴン桜 40歳からの教科書」という特集記事が組まれて主人公である桜木のイラストが大きく掲載されているのを見たとき、コンテンツの底力をあらためて感じた。エンターテイナーをもって自ら任ずる人間としては、こういう甲斐性のある作品を死ぬまでに産み出してみたいものだとつくづく思う。

 

・受験といえば、拙著『彼女の知らない彼女』が、東京都立富士高等学校の今年の入学試験で国語の読解問題の題材として採用されていた。当然ながら事前には一切通知はなく連絡があったのは事後のことで、送付された試験問題に自分の文章を発見して本当だったのだと知る。まるで思いもよらぬことだったのでまず驚き、それからうれしさがこみあげてきたことを告白しよう。どなたか存じ上げないが問題を作成した国語の先生が拙作をとりあげることを決めてくださったはずで、自校を受験する生徒さんたちに読解させる価値もない文章と思えばそのような判断を下されることもなかっただろうからだ。なんというか、勇気づけられました。 

ちなみに、著作権使用料の支払いの依頼書の宛名は「東京都知事殿」。 

 

・『小説すばる』5月号に花村萬月さんの新刊『GA・SHIN! 我・神』のブックレビューを書きました。おそらく期間限定ですがいまなら公式サイトの「新刊レビュー」でも読めます。 

この号には久保寺健彦さんの『ハロワ!』第2回も掲載されている。ハローワークで働くことになった青年を主人公にした連作で、青春小説という点ではこれまでの久保寺さんの作品にも通じるが、ここでは意欲的に新境地にも挑んでいると思う。 

ところで個人的に冷静でいられないのは伊集院静が連載している『いねむり先生』だ。著者と“雀聖”との交流についてはなんとなく知っていた(それを題材にした短篇も1本くらい読んだ気がするがこれは記憶ちがいだろうか)が、タイトルもずばりだし何回か読むかぎり本作はそれがメインテーマになっているのだ。かぎりなくエッセイに近い力の抜けた筆致(というかこれは私小説なのか?)で作家になる前の著者の視点を通して、ナルコレプシーと“鉢の開いた頭”に由来するコンプレックスといくつものペンネームを有し、鉄火場のなかだけでなく、うかがい知るかぎり人生のすべてにおいて繊細さと無頼がまるで聖者のように均衡していた人物(この人が博打打ちを本業にするのをやめて小説を書くようになってくれたおかげで僕はどれだけ救われただろう)の姿がじつに愛情深く描かれ、読んでいるだけで幸せな気分になれる。いわゆるふつう小説を読む楽しみとは別種の快楽かもしれない。でもこの作品は僕のなかの偏頗な嗜好を慰めてくれる希少なもので単行本化が待ち遠しい。

 

・企画協力という形でお手伝いさせてもらっている高田裕三先生の『CAPTAINアリス』の第2巻が出ました。

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高田さんはカラー原稿を紙に手描きで描かれるそうだが、パソコンで作画する漫画家さんのほうが多いので最近では編集者にびっくりされるとおっしゃっていた。ぬくもりのある風合いは作品世界にマッチしていると思います(しかし漫画の世界ではそこまでデジタル化が進んでいたんですね)。

『イブニング』でも現在掲載中のハイジャック編のエピソード(“親愛なるカイビーガン”)のその2に「胸の奥で“アルヴァマー序曲”が響いてる」というセリフがあり、知らなかったので調べてみたらありました。なるほど……!

訃報

井上ひさしさんが亡くなった、ということについてブログに書くべきかどうかいくつかの締め切りを背負いながら2週間以上悩んでいた。僕に書けることは多くないし、唯一の接点といえば井上さんが選考委員をなさっていた日本ファンタジーノベル大賞で優秀賞を頂戴したということだけだ。礼を失するおそれがあることを覚悟しつつ書く。 

文学賞の選評や何気なく手にとった文庫で目にした解説。たとえどんなに短いテキストでも一字一句ゆるがせにしない方であることはそうした文章や『自家製文章読本』に触れてわかったつもりになっていたが、最近になってたまたま(お亡くなりになる前だが)井上さんの原稿が校正者がほとんど赤を入れる余地がないほど完成度の高いものであるというエピソードを校正の精度の高さには定評のある(そして僕も実感した)新潮社の編集者から聞き、文章を彫琢するということへの執念――それは作家なら本来誰しも持っているはずのものである――が僕の想像をはるかに超えるものであったことを知って、物書きとしての自分の甘さを(まあ、はじめてではないのだが)自覚する機会を得た。

自分が受かった賞の選評というのは貶されてさえうれしいものだと思うが(俺だけかな)、井上ひさしさんには悪いところには目をつぶり、あえていいところだけをとりあげた評をいただいたようにも感じていた。長年小説の公募に応募してきて初めて受賞した身としてはおおいに励ましになったし、もっと言ってしまえば得した気分にもなったけれど、時間が経って当初の興奮が落ち着いてくると拙作の文字どおりつたない部分が気になってきて、そうなってくるにつれ井上さんのお言葉は返せる見込みのない前借りのように重さを増してくる。それはこれからの仕事へのいい意味でのプレッシャーとして働いてくれているが、やはり借りというのは――こちらが一方的に感じているものであれ――相手の方がご存命のうちに返しておくことができればそれにこしたことはないのだと今回学んだ。 

生前お目にかかってお話する機会がなかったこととともに残念なのはそこだ。しばらくの間はこの想像上の債務をつねに念頭に置きつつ仕事をしていこうと思っている。 

追記的に――大森望さんのツイッターで『井上ひさし全選評』という本があることを知り、驚く。

第21回日本ファンタジーノベル大賞

年をまたいじゃったな。 

去年の12月3日は第21回日本ファンタジーノベル大賞の授賞式とパーティに出席した。会場は前年と同じくクラブ関東。以前はもっと早い時期に開催されていたが、受賞作の刊行に合わせてこういうタイミングになったのだそう。今回は久しぶりに2作品が大賞を受賞した。受賞者の遠田潤子さんと小田雅久仁さんはどちらも大阪の方で、遠田さんは緊張されていたようだが小田さんは何度かこういう場を踏んでいるのではないかと思えるほど落ち着いていて、飄々としたスピーチで軽々笑いを取っていた。お2人ともしっかりと自分の雰囲気を持った人たちだなと感じた。授賞式に先立ち新潮社からお2人の受賞作が送られてきたのだが当日までに読めず作品についてお話できなかったのが残念。

小田さんの『増大派に告ぐ』は僕が思うに世間に氾濫するあらゆる物語にたやすく還元されまいとする意志に貫かれた作品で、腰が強く切れ味がよく精度の高い文章がそれを見事に支えている。アウトサイダーについて描く小説が陥りがちな罠を避ける老獪さやしたたかさと、慎み深いユーモアを一抹の含羞とともににじませるみずみずしい感性が同居しているところが魅力的だ。パーティの二次会で小説を書き始めてたしかまだ数年とうかがったのだがマジですか(※あとで確かめたら7年とのことでした)。この小説は「ファンタジー」と銘打たず「純文学」として刊行されていても違和感がない。小谷真理さんの「この作品をあえてファンタジーとして捉えることによって、本賞の可能性を押し広げられるのではないかと考えた」という選評に選考委員の先生方の意志が集約されているのではないかと勝手に推測する。すでにユニークである本賞をいっそうユニークにする作品、と言えそうだ。次にどんな作品を書くのかそのまた後はどうするのか小田さん今後が気になる作家だ。 

遠田さんの『月桃夜』は天保時代の奄美大島という知られざる(といっていいと思うのだが)そして非常に興味深い舞台設定を生かしきった物語で僕は登場人物に感情移入しながら素直な気持ちで読み進んだ。くっきりした人物造形や重要なモチーフとして登場する囲碁の描写やその扱い方などエンタテインメントのツボを押さえつつ、人間の業というたぶん小説のテーマの一番深いところをしっかりとすくい上げる手つきなどスケールの大きさを感じさせるストーリーテラーだ。時代考証などまちがいなく苦労して書かれているはずなのにそれを感じさせずすいすい書いたかのように読ませる手腕は天性もあるのでしょうがもうプロの確かさを感じさせる堂々たるもの。遠田さんは小説を書き始めてまだ5年! すごいなあ。

場所を有楽町に移しての二次会では初めてお会いした北野勇作さんなどとお話しし、さらに三次会へと流れて三時半に解散するまで飲む。翌日はしっかり二日酔いでした。

角田光代さんが24年間も観続けている劇団の新作

弘中麻紀ちゃんから届いたクリスマスカードに、彼女が所属する劇団ラッパ屋のチラシが入っていた。

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『世界の秘密と田中』。おお、新作だ。前回の『ブラジル』からもう1年経つわけか。あれも面白かったなあ(→過去の記事)。

 

ラッパ屋の舞台は、可能なかぎり観るようにしている。人にもお勧めしたい。とくに、ふだんは仕事に追われて劇場へ足を運ぶ余裕などないよ、というような大人にこそ。

 

主宰の鈴木聡氏へのインタビュー(→YOMIURI ONLINE)によれば、最近、1人で劇場へ行く中高年男性が増えているそうだ。逆に言えば、演劇鑑賞って、圧倒的に女性の割合が高い世界なのですよね。そういう習慣のない男性にとって、1人で観劇することのハードルはカラオケや焼き肉並みに高いのかもしれない。でも大丈夫。ラッパ屋の舞台はみんなで観ても楽しいが、男が1人で行っても寂しい気持ちになったりする心配はない。基本は笑えてちょっぴり身につまされ、たぶん最後は元気をもらえるエンタテインメントだ。

 

チラシのコメントを見て、角田光代氏がラッパ屋のファンであることを初めて知り、驚いた(タイトルには「さん」と書いたが、面識はありません)。

 

「18歳からずっと、つまり24年間も観続けているのは、ラッパ屋の芝居だけです」(チラシ(pdf)より抜粋)

 

観客としての年季でいえば、彼女と比べたら僕なんかお尻に殻をくっつけたひよっこもいいところで、えらそうなことを書いているのが少々恥ずかしいのだが、まあいいことにしよう。

 

あの大泉洋氏も、春風亭昇太氏もファンであることをカミングアウトしたラッパ屋の東京公演は、1月9日(土)から17日(日)まで、紀伊国屋ホールで行われるそうです。

 

詳細はラッパ屋公式サイトへ。

<ル・ファーレ白浜>でバーベキュー

皆様、お久しぶりです。

 

どんどん更新ペースが落ちており、気がつけば季刊を下回っております。前回のエントリから、4ヵ月ちょい。今どき、気の早い映画ならDVDになっていてもおかしくなさそうだ。ブログという看板に偽りがあるかもしれないと感じる今日この頃。

 

更新が遅れた理由は、あるといえばあり、ないといえばない。書けそうなネタはいっぱいあったのだが、記事にはならなかった。でもまあ、仕事のほうはちゃんとやってるし、べつにいいか、と安心していたら、このようなことに。

 

会った人、読んだ本、飲んだ酒、経験したイベントのすべてを記録する趣旨のブログではないので、さまざまな出来事のなかでもとくに峻別されたものだけが記事となることを許されているのだ、と考えてみることも理論的には可能である。

 

すみません。いいわけです(いや、プライバシーとか肖像権とかいろいろ考えて結局記事にしない、ということはあるのだけれど)。

 

というわけで、もう2ヵ月半近く前の話になってしまうのだが(笑)、9月の終わりに、<ル・ファーレ白浜>で、大学時代の同級生たちやその家族と、半年くらい前から企画していたバーベキューを実現することができた。

 

日曜に行うバーベキューのために、日帰り参加の連中を迎えるべく前乗りするという気合の入れよう。今回は夏に完成したばかりのサウスコテージに宿泊。メインコテージより広く、オーナーである山口恵子ちゃんのお父さん手作りのウッドデッキにもバスタブが備えつけてあったりして、全体的にかなり開放感のある造りだ。

 

今回は天気に恵まれて、リビングダイニングにつながるサンデッキでは日焼けもできた。大喜びである。炎天下のバーベキュー。僕は大好物だが、パラソルも借りたし、暑くなればすぐ室内へ逃げられるサンデッキで行ったので、女性やキッズが一緒でも問題なし。

 

冷蔵庫や流しが近いとバーベキューは快適だ。ビールも白ワインも冷たい。コテージのすぐ横にバーベキュー用のスペースもあるのだが、サンデッキでやらせてもらって正解だった。

 

大人数なので焼く人は忙しい。僕もやったが、最後はこの記事(→47ニュース特集記事「大転換」)を書いた春木和弘にお任せ。面倒見も手際もよい男なのでだいたいこうなる。食材の調達も下ごしらえもお願いしてしまった。思えば、学生時代もよく春木の下宿先にみんなで押しかけては手料理をごちそうになっていた。最近では豚のリエットが個人的に大ヒット(いまだにホームパーティで手料理をごちそうになっているんですね)。

 

前夜、恵子ちゃんと話していて、当時、海外へ留学する春木の送別会にかこつけて何度も仲間で酒を飲み、最後は3日がかりの大宴会になったということを思い出した。彼女に言われるまですっかり忘れていたのだが、そういえばそんなこともあった。

 

渋谷で普通に飲み会として始まったのだが、2次会、3次会と続いてカラオケボックスで夜を明かし、河岸を変えて飲み続け、2晩目は上野公園で野宿に近い感じで夜を明かし、夕方焼き肉を食べて解散したような記憶がある。当然1人減り、2人減りしていったが、最後まで残っていた人間も僕を含めけっこういたような。

 

僕は今でも飲み始めるとわりととことん飲んでしまうくちだが、さすがにもうこんな飲み方はしない。周りにだってこんな飲み方をしてる人はいない。

 

若くて、暇があって、人なつこい気分で、馬鹿だった。そういうことなのだろう。と同時に、そういう方向へ気安く流れられる時代の「気分」のようなものもそこには介在していたのではないかという気もする。当時はバブルの全盛期だった。バイトで得た金がだいたい酒と本に消えてしまうような生活をしていた自分は貧乏なほうの学生だと思っていたが、それでも、近頃の世の中とは大違いの(物質的に)豊かな気分とは無縁ではなく、親元で暮らしている安心感を担保にむしろ大いに時代の波にどんぶらこっこ乗っかっていたのではないか、と、ここ20年ほどの世の流れを見たら思わずにはいられない。

 

僕はべつに昔のほうがよかったとか、あれはろくでもない時代だったとか、そういうことは思っていない。たぶん時代にはいいも悪いもない。けれど人が時代から自由でいるのは意外と難しいみたいだ。なんたって、バブルの頃、僕は自分が時代の波に完全に取り残されている数少ない(あるいは唯一の)人間なのだと信じていたのだから。


話がずれてしまった。


今回、バーベキューの具材としての秋刀魚の旨さを春木に教えてもらった。家の近所にある、輸入食品などを安く売っている雑貨屋で、漬けるだけでジャークチキンの味付けができてしまう液体調味料を見つけたので試してみたかったが、忘れてしまったので次回の宿題にしよう。


それにしても、みんな、いい父親、母親になっていくよなあ。


あと、<ル・ファーレ白浜>の出張料理の地魚海鮮丼を初めて体験したが、魚の新鮮さと旨さ、そしてボリュームにびっくりした。今どきの言葉を使うなら、マジパネエっす。一度は試して欲しいが、胃のキャパシティに自信のない人は、1人前を1人で食べようなどとは考えず、2人でシェアすることをお勧めする。

「BDとは何か」とは何だったか

遅ればせだが、6月30日に早稲田で行われたシンポジウム「BDとは何か」に足を運んだのでその報告を。結論から先に言うと、会は盛況であり、僕は少なからず啓蒙された。 

始まった時点で参加者は100人を超えており、こうしたシンポジウムでは異例だったらしい。会場の入り口で『ユーロマンガ』のvol.1を参加者に無料で配布しており、いずれ買うつもりだったので喜んで頂戴した。100冊が用意されすべてなくなったというのだが、大盤振る舞いである。 

3人のコメンテーターのうち、中島万紀子氏と古永真一は早稲田に籍を置くフランス文学の研究者で、原正人氏は『ユリイカ』の「特集 メビウスと日本マンガ」(これはとても面白かった)にも寄稿している在野のBD研究者である。 

以下、簡単に内容を。 

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・中島万紀子「フランス人にとっての「ドラえもん」?――愛され続けるキャラクターたち――」 

『タンタン』をはじめとする、フランスの国民的なBD作品およびキャラクターの紹介。僕が学生の頃、『タンタン』はオシャレなものとして女の子たちのあいだでちょっとしたブームになっていた。それで敬遠していたのだが、日本語版のフキダシの文字も原典と同じように手書き文字であるという話や、スピルバーグが今度映画化するという話も聞いて、読みたくなってきた。 

その他に『スピルーとファンタジオ』『ガストン』『シュトゥルーフ』(日本では英訳された“スマーフ”として知られている)『アステリックス』『ラピノ』などが紹介された。人気のあるキャラクターはアメコミのように何人もの作家によって描き継がれる。個人的にはトロンダイムの『ラピノ』が読んでみたいと思った。 

興味深かったのは、『タンタン』をはじめ、フランスで人気のある多くの作品がベルギーの作家によって描かれていたということだ。ベルギー人はマンガ好きなのだろうか。

・古永真一「文学/BD/美術」 

タイトルのとおり、BDと文学、BDと美術の関係について。 

1ページで完結してときには笑えるという、きわめてキャッチーなマット・マドンの『コミック 文体練習』などを素材に使って、実験的な漫画を実践するウバポ(Oubapo)という集団、およびウバポ的な実践を行う作家を紹介する。ここまでが文学とBDとの関係。 

登場人物はなく、ゆるやかなシークエンスを形成する抽象画がコマとして並んでゆくという、日本ではまず漫画として認識されないであろうヨッヘン・ゲルナーの作品や、BDのフォーマットで詩人による詩を展開する作品や、コレオグラフィにBDを組み合わせたものなど、美術と親和するBDについて語られる。メモにはヴァンサン・フォルタン、ティエリ・ファン・ハッセリト、オスカー・バイイフなどの名前が記されているのだが、初めて聞いた名前ばかりで、誰がどんなことをしているのかよくわからなくなってしまった。名前も間違っているかもしれない。 

さらに、文学とも美術とも親和性の高いBDとして、パスカル・ラバテの『イビキュス』(アレクセイ・トルストイ原作)やトッピの『シェラザード』、バッタリアの『ポー作品集』などが挙げられる。メモには書いていなかったが、会場で配られていた「早稲田フランス語フランス文学論集」に掲載されていた古永の論文に、BDのアヴァンギャルドを代表する作品として、マルタン・ヴォーン=ジェイムズの『檻』という作品がとりあげられていて、そういえばこれも語られていたように思う。 

何となく、日本の漫画は世界的に見て作品数も膨大でバラエティに富んでいる、という先入観を持っていたが、話を聞くうち、たんに自分が海外の作品を知らなかっただけだという気がしてきた。たぶんそうなんだろう。もしあの場にとんがったことが好きでそういう作品を発表する場所を提供できる漫画編集者がいたらたちまち刺激的な企画をいくつも思いついていたのではないか、と妄想する。僕がそういう作品を知らないだけという可能性もあるけれど、日本の漫画もまだまだやってないことがいろいろあるのではないかというのが一読者としての最大の感想だ。まあ現実問題として、そういう作品が商品として成立するマーケットはたぶんないような気もするが。なんて書くと話がそこで終わっちゃうな。 

『ユリイカ』の「特集 メビウスと日本マンガ」が面白かったのは、メビウスの翻訳などまだ日本で出ていないときに、谷口ジローや大友克洋や浦沢直樹や藤原カムイやバロン吉元や寺田克也といった作家たちが、彼の作品をそれぞれで入手してそこから非常に大きな影響を受けていた、というアーティストの情熱を物語るエピソードが前面に押し出されているからだ。突出した作り手というのは、そもそも貪欲でアンテナが立っている人たちなのだろう。メビウスが大友克洋や宮崎駿と相互に影響を与え合ったように、僕が知らないところでこういうマージナルなBDから影響を受けている日本の作家さんもたくさんいるのかもしれない。 

・原正人「1990年以降のフランスのマンガ―フランスにおける発展と日本での受容」 

原正人氏がBDに関心を持ったのは2005年と比較的最近のことだという。そのきっかけとなった『ペルセポリス』や『ブラックサッド』という作品から、タイトルにあるように90年以降の比較的新しい作品群が日本でどのように紹介されているかが語られる。 

90年代、BDを日本に紹介するにあたって大きな役割を果たしたのは雑誌『モーニング』である。会場のスクリーンに映し出された作品を見ていると、僕も読んだ覚えがあるものがいくつかあった。非常に作家性の濃い作品ばかりで、日本の漫画を読み慣れた目にはとっつきにくい作品も多かったように記憶している。モーニングKCで単行本になっているものがあったなんて知らなかった。『モーニング』は今でもアジアの作家の作品なども紹介しているから、海外の漫画を意識的に紹介し続けているのだ。 

『モーニング』が紹介したBDの作家たちはじつはそうそうたる顔ぶれだった、と原氏は教えてくれる。ラソシアシオンという、作家同士で作った出版社からも多く作品を出しているという。この出版社の作品の特徴は、まず作家主導であること、日本とは逆にそれまでカラーが主体だったBDに白黒の作品を持ち込み、ヒーローものばかりでなく日常を舞台にした作品などへとモチーフも広げた。アメリカのロバート・クラムの影響も受け、自伝的な作品も数多く描かれるようになった。ラソシアシオンが起こしたムーブメントは浸透していき、大きな出版社からも作家性の強いBDが出版されるようになり、自覚的な自伝的マンガは今や一ジャンルを形成するほど隆盛のようだ。 

『青い錠剤』『なぜ僕はピエールを殺したか』『脂肪と私』などの作品やニコラ・ド・クレシーの『小さなクリスチャン』やメビウスの『インサイド・メビウス』などのタイトルが紹介される。メビウスに関してはいえば、すでに73年に『回り道』という自己言及的な作品を出していた。

以上のような作品のなかには、原氏いわく、日本で翻訳しても人気が出そうなものもいくつかあるという。 

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といったところだ。 

固有名詞をはじめ、素人ゆえのまちがいがたくさんあるかもしれないがご容赦を。

シンポジウムの後には懇親会があり(あまり広くない研究室は人でいっぱいになった)、そこにも顔を出し、思いがけぬ方に紹介してもらい、いろいろ刺激的な話を聞いて目が覚めるような思いを味わったりもした。たまには外に出てみるのもいいものだと思った。 

古永真一に関していえば、BD関連でまだ準備している仕事がいくつかあるという。聞いているとなかなか大変そうだが、おそらく彼はあの調子で淡々とこなしていくのだろう。久しぶりに足を運んだ大学の構内には、僕がいた頃にはなかったスタンド式のカフェがあったり、柵で囲った大きな駐輪場ができたりという変化はあったが、基本的な「匂い」みたいなものは全然変わってないような気がした。学校というのは不思議な空間だ。

AmazonのKindle

こんにちは。

東京にいても日食には暗くなるものとばかり思い込んでいた里見です。

さて。

活字を読むメディアとして紙で作られた本の優位がなくなることはない、と、愛着8、諦観2の割合でずっと考えていた。愛着というのはもちろん慣れ親しんできた書籍というものへのフェティッシュな執着が大半で、あとは閲覧のしやすさとか、書き込みができるといった機能性への支持も含まれる。諦観というのは、デジタルデータとちがって宿命的に保存場所をとることと、かさも重さもあって持ち運ぶのが大変、検索がしにくいという不便さに由来している。これは愛着のほうに属するのかもしれないが、モニタで大量の文字を読むのは疲れるし。 

でも、Amazon.comでKindle2を紹介する動画を見ていたら、この考えが揺らいできた。 

太陽光の下でも反射しないように工夫されたディスプレイとか、携帯電話会社との契約なしに、つまり月々の通信料を払わずにKindleのサイトに接続してどこにいても1冊1分以内に(PCを介さずに)ダウンロードできるとか、Wikipediaも見られちゃうとか、新聞や雑誌やブログなども定期購読できるとか、僕には非常にツボな機能ばかりだ。重さも300グラム弱と軽いし、これで他のインターネットサイトも閲覧できれば(Wikipediaを読むとできちゃうみたいだが)、僕のようにネットブックでも重いと感じる人間には外出時に欠かせないアイテムになりそうな気がする。 

さらにここに、スタイラスなどを使ってページに「書き込む」ことのできる機能があれば、仕事に使う資料については紙の書籍よりもKindleのほうが完全に便利になってしまいそうだ。資料を読み込んでノートを作るとき、喫茶店など外で作業をすることが多いのだが、何冊も持ち歩くのは重いし、かさばる。コンパクトにまとまってしかも検索機能がついているとなれば、作業効率がずっと上がるのではないかと思うのだ(電子辞書のことを考えるとそうとしか思えない)。資料に関しては、絶版になって入手不可能なもの、マーケットプレイスなどでプレミアムがついているものなどもデジタルデータ化されていればよりアクセスしやすくなるのではないかという期待もある。 

もちろんKindleにもいろいろ改良の余地はあって、Wikipediaの記事を読むかぎり、どうやら商品としてあまり成功しているとは言えないらしい。 

それに、まがりなりにも著作権収入を得ている身としては、書籍がどんどんデジタル化されてゆくのはそういう観点から自分にとって「得」なことなのかどうかは不明、であるがゆえに不安も感じるし、やはり紙の書籍というメディアはずっとなくならずに存在してほしいという気持ちもある。が、iPhoneにはさほど食指が動かない僕も(たんにニーズのちがいだが)、Kindleについては、考えるほどに使ってみたくなってきた。日本語版が出る予定はないのだろうか。

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